21番目のやさしさに

ーダウン症のわたしからー

岩元 綾 著

 暑い夏のさなか、京都のかもがわ出版編集部の鶴岡さんがみえて「綾さん、本を書いてくれませんか?」と言わ
れたのです。
 それ以前に私は東京の出版社からも同じお誘いを受けていたのですが、一人で長い文章を書いて自分のことを本
にするのに抵抗を感じ、とても不安でした。でも、いつかは書かなければならないと分かっていながらずっと迷っ
ていました。
 私は幼稚園の頃から文字を読んだり、書いたりするのが好きだったようです。
 私は、ことばは生きていると思っています。表現することによって、ことばは心と心の架け橋みたいなものにな
るのだと思います。その時に伝えたいことばが見つからなくてもいつかきっと見つかって、相手に伝わるのがこと
ばだと思っています。話しことばのあまり上手ではない私でも、書くことによって多くの人に伝えられるのではな
いか、やってみようと決心をしました。
 夏から書き始めて秋が過ぎ、冬になっても本の原稿はなかなか終わりませんでした。私は『走り来れよ、・・・』
の末尾に次のように書いています。
 「この原稿を書くにあたり、一度書くのをやめようかとあきらめかけていた時がありました。でも思い直して書
こうとすると、いろんなことが頭の中を駆けめぐってきました。幼い頃の坂の上でのこと、ひまわり幼稚園での楽
しかった出来事、小学校の時のことなど・・・・いろいろな懐かしいたくさんの思い出に支えられて再び書く気に
なり、書き終えることができました。自分のことを自分で書くのは難しいけれど書くということの大切さを感じま
した。」
 気持ちはあの時と同じ苦しみでしたが、でも、あの時とは比べようのない量を書いてきました。それは私があの
時から10年、さらにたくさんの経験をしてきたからだと思います。
 ダウン症である私が生まれてから今日までの軌跡を、多くの方々に分かって頂ければとても嬉しく思います。

      
2008年3月            岩元 綾 (本文「はじめに」より)

もくじ

 春はまだ浅く、強い風に舞う梅の花びらをガラス戸越しにぼんやり眺めていると、そのうしろで「終わった」と
かすれたような綾の声がしました。
 夏の終わりから幾度となくそんな声を聴いていた私は振り返って、髪を振り乱し目の下に隈をつくったパソコン
の前の綾を見ました。「できた」、「済んだ」、「終わった」、その声を私は夏から幾度聞いたことでしょう。し
かし、できたのは精魂込めて書いたであろう数行であったり急いで書いた一節であったり、章の終わりであったり
したのでした。
 しかし、「ぜーんぶできた」そう言った綾の目にはなぜか疲れはなく、輝いていました。私は思わず「おめでと
う!」と両手を広げると満面に笑みをたたえて私の腕の中に飛び込んで来ました。
 本を書きますと返事をしてすぐにプロローグから書き始めたのでしょう。しばらくしてからプロットを立て、初
めは「走り来れよ・・」出版の前後あたりから現在までを書くつもりだったのでしょうが、子どもの頃のことも書
いて下さいと言われて、戸惑いながら四苦八苦しているのがよく分かりました。
 季節が移り、冬になっても暮れも正月もなく書き続けていた綾は年が明けて体調を崩してしまいました。それで
も「食べ過ぎだったのかもしれない」と気丈にも3,4日で立ち直って書き続けました。一月の半ば頃からでしょう
か、時々、夜中に床の上に座っている綾の姿がありました。
 胸に何かを抱え込んでしまった時のしぐさです。かつて大学時代、英作文の試験の時、卒業論文を書く時、綾は
そうやって夜中に眠ったまま座っていました。何度も床に戻してやりながら、私は綾に過酷なことを強いてしまっ
たのではないかと悔いたものです。しかし今綾はすっかり大人になり、いろいろな経験を積み、自ら決めたことは
自ら解決していくのではないか、見守ることしかできないのではないか、私はそう自分を納得させました。
 やがて二月、一ト月も待ってもらっていた第一稿をやっと送った原稿には編集者が「綾さんはもう書きたくない
と言われないかしら」と心配されるくらい、たくさんのチェックが入って来ました。綾は「私はこんなに夢中で書
いていたんだー」と少し恥ずかしそうに直していました。
 しかし書きためた項の中にはどの章にも入らないものもあり、惜しそうに「捨てようかな」と言います。
 「せっかく書いてきたんだから分解して各章にくっつけたら」というと、「そうだね」と作業を始めました。そ
して、最後に残ったのが綾が一番苦労して書いたであろう「走り来れよ・・」の出版のところでした。三分割した
らと編集者に言われ、迷っている綾に夫は「分けるといい」と促して「新たな旅立ちへー出版を祝う会」という新
しい項が生まれたのでした。

       柔らかき 頬をりんごの如く染め、 
               走り来たれよ 吾娘よこの腕に

 なかなか外では歩こうとしなかった綾が二歳の誕生日に、赤いブーツを履いて私の腕の中に駆け込んできた瞬間
の言いようのない喜びの歌です。思えば十年前の、この歌からとった「走り来れよ、吾娘よ」の出版は綾を呑み込
んでしまったかに思えてならなかった私にダウン症者本人の本の出版という新たな歴史をくれたのです。
 いままでに書いてきた講演の原稿や新聞、雑誌の寄稿文が下敷きにあったとはいえ、この半年余り、諦めずに書
き続け、紡ぎだした綾のことばは心に沁みるものがあります。
 そして、書き終えた時の綾の満面の笑みはあの短歌を詠んだ時の幼い笑顔と重なってしまいます。
 夢だったちひろの絵を表紙にした「21番目のやさしさに」の完成 ほんとうにおめでとう!

             2008年3月12日     岩元 甦子(本文末より)

おめでとう!『21番目のやさしさに』の完成

はじめに

ーどう生まれたかではなく、どう生きるか、が問われる本です!

ダウン症の当事者が初めて本を書きました。

ダウン症である私が生まれてから今日までの軌跡を
    多くの方々に分かっていただきたい!

(以上、かもがわ出版チラシより)

5月初旬発行予定

物質的に豊かな国に住んでいる私たち
でもどこか心が満たされないでいる
いらない命なんてないんだよ
あなたはあなたのままでいい
生きる希望を見失いかけているあなたに
ぜひ読んでほしい
             大平光代さん(弁護士)

 「私は昭和48年に鹿児島大学附属病院でダウン症児として生まれました」という1行から始まります。今だから書
ける「このたった1行が書けませんでした」という綾さんの思いが読者の胸に迫ってきます。ご両親の愛情が・・・
 綾さんのひたむきに生きる姿が・・・涙なくして読めません。

本の表紙にはこのちひろの絵が入ります

 「21番目のやさしさ」ってなんだろう?と思われる方があるかもしれません。私たちダウン症のほとんどは通常人
間の23対ある染色体の中で、21番目の染色体が1本多く3本あります。そのため21トリソミーとも呼ばれています。
 多くの人が、この1本多い染色体が悪さをして発達の遅れや心臓病など、いろいろな障害が起こるのだと言います。
しかし、母は私たちの21番目の1本多い染色体にはやさしさと可能性がいっぱい詰まっている、と言うのです。私は
その言葉にとても救われました。(第1章から)

 

 

第1章 メッセージ

第2章 思い出の中で
         (幼児期)
第3章 続けることの大切さ
       
(小学校時代)
第4章 自信を持とう
       (中学校時代)
第5章 向学坂を上って
        
(高校時代)
第6章 銀杏並木を通って
         (大学時代)
第7章 生きる力とやさしさをもらう
         (講演活動のなかで)
第8章 夢の続き、そして今 

 

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