うどんの歴史
うどんの歴史

目次

蕎麦つゆとうどんつゆ

いつから蕎麦切りは始まったか

日本におけるうどんの歴史

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蕎麦つゆとうどんつゆ

現代、私たちが麺類を食べるときにつける蕎麦つゆは、いつ頃から今のようになったか。麺類のことに明るい食文化の研究者の意見では、江戸の後期になって初めて、今のような濃い口の醤油を使うつゆになつたという。江戸時代の中頃までは、他の食品と共に調味料の醤油なども関西から船で運ばれて来たもののようで、これらの「くだりもの」と言われた上級品に対して関東周辺で出来るものは「くだらないもの」と呼ばれていたという。
 江戸前と呼ばれる、今の東京湾で沢山獲れた魚介類を握り寿司にしたり、天麩羅や鰻の蒲焼きが大流行したりするのも、銚子や野田の濃い口醤油が「最上醤油」として認められるようになってからのことで、それまでは、紀州の醤油や溜まり醤油、竜野の淡口醤油などの上等なものは高級過ぎて、なかなか庶民の口にははいらなかったようである。
     銚子の田中玄蕃  (元和二年・1616)
     同  浜口儀兵衛 (正保二年・1645)
     野田の高梨兵左衝門(寛文元年・1661)
      同  茂木七左衛門(覚文二年・1662)

 関東の濃い口醤油は、上に掲げた年代からそれぞれの人たちが製造し始めていたが、小麦を材料に採り入れて、一段とその味に豊かなこくを加え、「最上醤油」の名を付けることを初めて許されたのは、ずっと後の、元治元年(1864)のことである。かくして、味の良くなった関東産の醤油が、江戸っ子の食い道楽を促したもののようだ。
 従って、今日のようなソバツユは、今から200年位前になってから使われるようになったといえる。では、それ以前の麺類の付け汁には何を使っていたのだろう。驚いたことに、麺類の研究者によると、「真田汁」とか「鬼汁」などと呼んでいたものがあり、いずれも辛い大根のおろし汁であったらしい。当時、世間で流行っていた、辛い地大根のおろし汁に、溜まり醤油か味噌で味付けをしたものが大層喜ばれていた、というのは『本朝食鑑』の記述のとおりであったようだ。そこで大根の味の良いところが即ち蕎麦の名所であったということも納得がゆく。

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いつから蕎麦切りは始まったか

 蕎麦がいつから「蕎麦切り」という、今日私たちがそば屋さんで食べさせて貰うような細長い麺になって食べられたか、そんなことを研究しても学者サンは賞ももらえないし出世もしない。だからかどうか、余りこんな研究はされないそうだ。
 こんにち知られているもっとも古い蕎麦切りにまつわる文献は、「慈性日記」と言われている。慶長19年(1614)、 多賀神社の社僧・尊勝院慈性の日記に、江戸で滞在していた僧侶達が連れ立って風呂屋に行ったが混雑していたので帰ってくると世話になっていた常明寺という寺で「蕎麦切り」を振る舞われたと有るそうだ。この年は大阪冬の陣で真田幸村が大阪城に入城した年でもあります。
 ついで二番目に旧いのは、元和八年(1622)の松屋久好茶会記で、お茶会で蕎麦切りをだしたという記録が載っているという。この年は真田信之が松代の城に移り、以来明治維新に至るまで藩主として真田家が続く最初の年でもある。
 こうしてみると、蕎麦切りの起源は高々384年位がいま文献で遡れる最古のところで、それも庶民生活の中にではなく貴族・武士・僧侶などの社会においてであり、別の文献で(1645「毛吹草」に「蕎麦切り信濃より始まる」とあり「本朝文選」森川許六・1706「中山道・本山宿で旅人に蕎麦切りを商う」)等と見られるのが庶民的な社会にまで広がったことの記録としては旧い方と言えるが、これより前の寛永19年(1642)に、飢饉によって幕府は穀類の加工品である饅頭そうめんなどとともに蕎麦切りを商うことを禁止している。これを見ると355年以上前から麺類を商っていたことがわかる。
 蕎麦そのものの歴史は縄文時代に遡るらしいことは最近のいくつかの考古学調査でわかってきている。
大変古くから日本に入ってきて栽培され食用になってきた蕎麦は、一方では救荒食物でもあり、荒れ地でも痩せた肥料不足の土地でも出来て、年に二回収種できることから、昔の農村では大変役立ってきた。
またその利用の仕方食べ方は長い間粉末にして「そばがき」「すいとん」「クレープ状のいわゆる薄焼き煎餅」また表皮を剥いで粒のまま炊きあげる「蕎麦粒雑炊」等であった。
 今日でもそば屋さんでは「そばがき」を提供しているところが多いし、料亭などにも「蕎麦粒」をたいて雑炊にしたり、色々の食材とともに高級な一品の料理に仕上げているところもある。「蕎麦粒」のままとか、粉にして加工する方法とか長い間利用してきた食品としての蕎麦が、つなぎの発見で今日的な細く長い麺のように仕上げられて、その独特の味わい風味が好まれるようになったのは、たかだか三百数十年の歴史しかない。
 前にも述べたように、その三百数十年の蕎麦切りの歴史の中で、二百年前から初めて醤油味の付けつゆが現れたとしたら、最初の百数十年の間は専ら大根の絞り汁に味噌やたまり醤油を加えた汁で蕎麦切りは食べられていたらしい。

日本におけるうどんの歴史

  奈良・平安の時代には中国から伝えられて貴族的な社会にはすでに広がっていたらしいが、他の多くの名品と同様に室町時代頃から庶民の食生活がその幅を広げるようになる。その作り方のせいから初めは「混飩」と呼ばれ、次第に「食饂」と名付けられていく、蕎麦切りに比べると遙かに時代は旧い。
 「そうめん」から、「どじょううどん」に至るまで太さ長さに大変な変化があり、「きしめん」や山梨の「ほうとう」群馬の「お切り込み」とその幅と厚さに特徴のある麺類も有る。先に挙げた、森澄雄さんの『俳句遊心』という本に、次のような記述がある。
「むかし、どこかで読んだ小説に、概略、次のような筋の小説があった。『江戸で商売に行き詰まった夫婦者が、ふるさとの信州で子供の頃に母親からよく食べさせて貰った大根の汁を付け汁とした蕎麦を商ってみたところ、たちまち評判となり、大いに繁盛した』という筋の話であった。」というのである。
「更科」と言えば江戸時代から蕎麦店として有名だが、麻布十番にあるその「更科」宗家のご当主が、先頃、当地に訪ねてこられて、「私は八代目になりますが、伝えられているところでは、私たちの先祖は信州のこの辺りの出身だったそうです。「更科」のルーツを訪ねたいのですが、手懸かりになるようなことは解りませんか」と、お聞きになられたそうです。森澄雄さんの本の記述と直接は関係ないにせよ、私はこの事を聞いて、先ず「絞り汁」の蕎麦で大成功を納めた夫婦者の話を想起せざるを得なかった。
 八代目と言えば、今を遡ること、ほぼ200年に近い年となり、その江戸の中期頃は、地方の農村の人たちは、江戸に出て商売をするといった自由は許されていなかった。出稼ぎに出てゆくことはしばしばあり、その先で出身地に帰らないで、苦労の末、そこで商いをし始めるという人も現れ始める。当時の食べ物の店というのは、「けんどん」といわれる、担いで歩きながら商うか、屋台で商うのが殆どで、蕎麦屋も天麩羅や鰻の蒲焼きなどの店も大概がこの形であった。
 時代劇に出てくる回船問屋とか呉服屋とかの大店(おおだな)は別だが、庶民相手の食べ物屋などは、そうした移動できるようなこじんまりとした商いが多かったようだ。
 大層簡便な店であったが、江戸っ子のせっかちな気質にあって、爆発的に盛んになり、握り寿司・天麩羅・蒲焼き等が喜ばれた。この時期、江戸っ子は急激に「食い道楽」に変身してゆくらしい。その原因は関東で産出する醤油の味が良くなったことにあったらしい。それらの食品と共に蕎麦饂飩も軽便さが喜ばれて大層流行っていたようだ。 


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2007/03/21

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