享保の新燃岳噴火と土石流災害

 今回の噴出物の化学組成は享保噴出物と酷似しており、享保元年(1716)から享保2年(1717)にかけて活動した享保噴火が参考になります。享保噴火では、かなり長期間、凖プリニー式噴火(軽石火山灰噴火で降下物の範囲が500km2以下)を繰り返しており、火砕流を伴ったり、泥流を出したりしたそうです(井村,2011)。火砕流は、現在の主要地方道小林-えびの高原牧園線にまで達しました。また、東麓に大量の火山灰を降らせています。
 新鮮な火砕流・火山灰が堆積しているところに、享保6年(1721)閏7月3日~8日にかけて、諸県(もろかた)郡を昼夜間断なく豪雨が襲いました。この大雨で、山間部に堆積していた享保初期の火山噴出物が大土石流となって下流の集落を襲い、海岸部まで達したそうです。この災害で、高原郷から高崎郷、高岡郷、野尻郷一帯にかけて多数の死者が出ました。農業にも多大な悪影響がありましたから、当時、人口増加傾向にあった諸県郡の人口は減少に転じ、明治まで回復しなかったそうです。(『宮崎県における災害文化の伝承』宮崎県県土整備部砂防課,2005 による)