論点
南日本新聞寄稿文
   2006年度の南日本新聞の客員論説委員として「論点」に月1回寄稿

することになりましたので、常日頃考えていることを農業・農村から

思い切って発信して書くことにしました。



第1回 太陽とともに起き眠る  2006.1.16

 喧騒な都会を去り、静かな山里に移り住んで早くも三年目の正月を迎えた。我家からは韓国岳を中心に霧島連山を遠望することが出来る。朝起きると居間の障子を開けて、霧島連山に昇る朝日を拝むのが日課となった。今日も太陽の恵みを受けて生きることにそっと手を合わせ感謝する。
 地球全体が太陽から受ける膨大なエネルギーは、地表や海面で熱に変わり、一部が風や波、海流などを起こすエネルギー源となる。化石燃料も太陽エネルギーが地中に蓄積されたもの。地球上の植物は太陽エネルギーを受けて光合成を行い生長する。それを動物たちが食べて生命を維持する。人間はそれらの恩恵を受けて生きている。

 このように太陽のお陰で、地球上の生きものすべてが生きているというごく当たり前の真理を、頭では常に理解しておきながら、現役時代の多忙な都会生活では、つい忘れがちであったように思う。農業を営む私の日々は、「太陽と共に起き、太陽と共に眠る」平凡な暮らしの繰り返しである。朝、東の空に昇る太陽を拝んだ後、洗顔し、野鳥の声を聞きながら木刀で素振りした後、一日が始まる。山羊、合鴨、鶏などの家畜の餌やりを、早朝六時頃から始める。七時過ぎ朝食を済ませた後、新聞を読み、お茶を飲みながら妻と今日の一日の農作業の打ち合わせをする。その日の天候により、作業内容は弾力的に変化する。つまりその日の農作業は太陽の照り具合で決まるのだ。夕方、日の沈む頃まで働いた後、母屋に上がって風呂に入り、一日の汗を流す。外での仕事は日の長い夏は夜の七時過ぎ、日の短い冬は五時過ぎに作業は終わる。働いた後の夕食の晩酌(だいやめ)が事のほかうまい。
 晴耕雨読という言葉があるが、これは日々の農作業と暮らしは太陽しだいであるという意味にもとれる。このようにして自然を相手にする農業を始めてからは、太陽を身近に実感する毎日となった。日本の国名の由来は、「日の本」から来ているそうだ。つまり「私たち日本人の命は太陽が元(本)だ」ということ。この「日の本」の「の」が抜けて「日本」という国名になったという。境野勝悟氏は著書「日本のこころの教育」の中で、「日本人とは何か」と聞かれたら、私たちの祖先が命の元が太陽だと知って、その太陽に感謝して、太陽のように丸く、明るく、元気に生きるようになった、これが日本人だと答えなさい。だから古代の人は太陽のことを「お蔭様」とも言っていた。みんなが同じ太陽の生命で生きているのだから、みんな仲良くしないといけない。主義や思想が違ってもいい、それぞれが持っている才能が違ってもいい、お互いを認め合って、この共通の太陽の生命を喜びあって仲良く生きる、これが私たち日本人の生き方の原形である。競争ばかりして、弱いものをたたいて、強いものだけが威張り、勝ち組と負け組をつくるのは、太陽の生命を感謝しあって生きようとした日本人の本来の生き方ではなかったはず、というようなことを境野氏は述べている。
 実はお年寄りによれば、日本人は七十年前くらいまでは毎日のように朝日を拝んでいたそうだ。毎日「お蔭様で」と太陽に向かって手を合わせれば、人は自ずから素直で謙虚な心になるもの。この謙虚さと和を尊ぶ心が日本人の原点にある。  
 昨今は、資源枯渇と地球温暖化を反省して、リサイクルやクールビズなど省エネを啓蒙するが、本気に省エネを唱えるならば、太陽のお陰で生きていることを忘れてしまったことへの反省をこめて、「太陽と共に起き、太陽と共に眠る」という生活型に切り替えることだ。文明の発展とともに、夜行型化した人間が今さら昼行型に戻るというのは夢物語と一笑されそうだが、深夜放送を控え、深夜営業ストア通いをやめて、早めに床につくだけでも、地球は蘇ってくるものと確信している。早起きで、早めに就寝するお年寄りや農家は、「太陽と共に起き、太陽と共に眠る」を、まさに地で行くつつましい人々であり、地球環境にやさしい人間として、もっと称賛されてしかるべきである。
 二〇〇六年の元日、近くの竹子原台地に妻と共に立ち、両手を合わせ、高隈山系に神々しく昇る初日の出を拝んだ。あらためて太陽のお陰で生きていることを肝に銘じるとともに、人間としての本来の生き方と暮らしのあり様を更に探求することを心に誓いつつ。

 
第2回 防犯の地域力は人間関係の中に  2006.2.13

 
大学を辞めて農村に移り住む時、多くの都会の同僚たちがいろいろと心配してくれた。一番多かった心配は、「田舎は人も少なく、寂しいのでは?」ということ。
 でも農村に住んでみて「寂しい」などと感じたことは未だ一度もない。それどころか頻繁に勝手口に届けられる集落の方々からの野菜や手作りのものに、心温まるものを感じ、感謝の日々を送っている。日が暮れると、山里の家々にともった明かりに、住む人の息づかいを感じ心が安らぐ。道ばたで会うと、「おはようございます、こんにちは」と挨拶を交わし、「今日は晴れますかね」、「稲刈りはいつですか」などと、天候やお互いの農作業のことに一言触れて別れる。車のないお年寄りが道を歩いていると、「乗っていきませんか」と声をかけ合う。私の農園近くの小さな山の畑には、約二キロも離れた家から背負いかごと農具を担いでせっせと通ってくる元気なおばあさんがいる。雑草一本ないその畑には、四季折々丹精込めて育てられた野菜が絶えることはない。畑からの帰りには私の家にその日採れた新鮮な野菜をよく置いていってくれる。たまには「お茶を飲んでいきませんか」と声をかけ、我家の土間で一服してそのおばあさんの身内のことや世間話に花が咲く。また周りの農家は、私の飼うヤギの餌にと、畑の芋づるや野菜屑をせっせと届けてくれる。
 土手払い、山払い、道路端の草刈り、集落公園の清掃など、一年を通して集落の共同作業も結構多い。共同作業は朝六時と早いが、それでも各世帯から必ず一人は参加する。各々の体力に合わせて、男の人たちは草払い機で、お年寄りや女の人たちは手鎌で刈って行く。そこには自然に出来た見事なチームワークがある。
 一昨年、皆で作った小さな農林産物直売所「竹子の里きらく館」は、消費者との交流のみならず、地元の農家同士の新たな交流の場ともなり、いつもお茶を飲んだりして賑わっている。私も妻もここに通うのが楽しみの一つとなった。
 こうみてくるとまさに農村の人間関係の豊かさに万歳だ。農村に来て「寂しさとは人と人との物理的距離ではない」という当たり前のことに気づかされた。ふり返れば、人の密集する都会ほど、「隣は何をする人ぞ」のように、人と人との関係は希薄ではないのだろうか。以前、私は鹿児島市内のある団地に住み、町内自治会の役員をやったことがあるが、地域で何をやるにしても、人集めで苦労の連続であったことを思い起こす。かって農村の多くの若者が、濃密な人間関係のわずらわしさを嫌って都会へ出た。その結果、便利さや個人の自由は獲得できたが、その分人間関係は希薄なものとなり、失ったものも大きい。
 昨今の続発する幼児殺害事件で、不審者から子供たちを守るために、その地域力が問われている。しかし定期的な巡回パトロールのみで、地域の子供たちを犯罪から守ることができるのか。またそれを地域力というのであろうか。都会では、お金持ちは子供を守るためにガードマンを雇ったり、子供に衛星利用測位システム(GPS)付き携帯電話を持たせたりするという。学校では登下校時のバスを借り上げたり、門衛にガードマンを雇う。これらはいずれもお金で安全を買うやり方であり、安全確保にコストがかかる社会となった。
 都会に比べて、人間関係の豊かな私の住む農村では、その地域力はまだ失われていない。地域の人々の地元小学校への想いは熱いものがあり、子供たちの教育のためには協力を惜しまない。小さな小学校の全生徒六〇数名を、「あれは誰々さんの子」と、周りの大人たちがよく認識しており、不審者はすぐわかる。仕事と生活の場が一体化する農村では、いつも地域の人の眼が光っている。地元小学校では地域住民の発案により、生徒の登下校に合わせ、「散歩やジョギングをしながら」、「畑仕事をしながら」、「お店の仕事の合間に」等々、普段の仕事や暮らしの中の可能な範囲で、子供たちを見守ってもらうという、仕事・生活密着型のボランティア活動を開始した。
 農村といえば、とかく「過疎」、「寂しい」などの暗いイメージがつきまとうが、住んでみるとそこには意外な程、豊かな人間関係が息づいていることに気づく。いま問われている防犯の地域力も、その地域で育まれた豊かな人間関係の中にあるのではないだろうか。それはお金で簡単に買えるものではない。
 
第3回 マネーゲームには無縁の農業 2006.3.20

 株価や為替の変動で利ざやを稼ぐ世界には全く無関心であった私が、昨年来のインターネット業界の株買占めによるテレビ会社乗っ取りニュースを見て、にわかに興味を抱くようになった。ライブドアの前社長が逮捕されてからは、きわどい錬金術が次々と明らかにされているが、私のような株世界に疎い者にはさっぱりわからない。とにかく法の目をくぐって、うまくやれば瞬時にして莫大な金を稼げることだけは理解できた。

 ものづくりの大切さが忘れられ、地道に働くことよりも、一攫千金を夢見る人が増えているのであろうか。政府や業界も「貯蓄から投資へ」と拍車をかける。個人投資家も増え続け、今では約三〇〇万人がインターネットで株取引しているという。このようなマネーゲームに興ずる昨今の風潮は、農村で土を耕す農家にとっては、遠い世界の出来事のように思えてならない。

 マネーゲームで利益を上げても、それは新たな価値を産み出しているわけではなく、何の社会的富みも増やさないが、農業は食糧という大きな社会的富をもたらしている。にもかかわらず何故に正当な社会的評価を受けないのであろうか。台風や病害虫などの大自然の脅威にめげず、苦労して育てたお米は、市場では安くて生産費もまかなえず赤字となる。収穫したキャベツは暴落で運ぶだけ赤字となり、トラクターで泣く泣く畑に鋤きこむ。真夜中の難産で、夜を徹して助産した子豚を何とか育て上げて市場に出したが、利益は豚の尻尾分にもならない。林業では伐採し運ぶ運賃の方が、木材相場より高く赤字となる。これでは山の手入れをする意欲も生まれない。収穫目前で台風が襲い、落下した果実に目を落とし、これも天命と受け止めて、来年を待つ果樹農家の気持ちをわかっていただけるであろうか。
 農家は種子、肥料、農薬、飼料、農機具代など生産に要する費用は、すべて企業側によって価格が決められており、それを文句なしに購入せざるを得ない。一方、生産物を売る時は、市場相場によって決まり、自由に価格設定は出来ない。つまり農家は生産資材業界と流通業界の一方的な価格設定という狭間で赤字に喘いでいるのである。故に農村にとどまる多くの農家は家族を養うため、農外収入に生計を求める兼業化という形で辛うじて乗り切ってきたのだ。
 農家になった私は、「農業とは経済的に割の合わない仕事である」と心の底から実感している。新規就業者として要した私の費用は、農地購入、圃場整備、納屋建築、農機具類など、コストは農業収入をはるかに超えて多く、莫大な赤字となる。一個五〇円の合鴨の卵を、ビニール袋に二個入れて一袋一〇〇円。それを皆で造った近くの小さな直売所に、持って行くが、餌代やガソリン代などの運賃にも満たない。正直言って赤字なのに、それを繰り返している私を、妻は黙って笑ってみている。
 私の住む農村では、朝早くから田畑に出て、夕暮れ遅くまでよく働く農家が多い。師と仰ぐN老農家は、いくつにも分割された小さな棚田をせっせと耕し稲を育てる。裏山の畑では、猪に荒らされながらも麦や芋や野菜をつくり、納屋では鶏も飼う。冬には手作りの炭焼き小屋で炭を焼く。一年中体を動かして働くが、経済的には報われない労働に愚痴一つ言わない。尊敬するY社長は、農機具・資材販売店も兼ねながら、好きな農業に精出している。耕すことの出来なくなったお年寄りの農地を世話したり、困った人のために汗を流す。きっと生まれ育った故郷をこよなく愛しているのであろう。
 こうした人々に日々接していると、お金や株を動かすだけで利益を生む世界があることは、誠に不合理な社会と思わざるをえない。これでは若者が農業へ振り向かず、後継者が育たないのは当たり前の話。そのような中「農家は経営能力が乏しく、甘えているからだ」と、為政者は説き、一戸当たり所有面積が四町歩以上(北海道は一〇町歩)の大専業農家を育てる新農業政策を打ち出した。外国の安い農産物に太刀打ちできるよう、小さな農家を切り捨てるということだ。これで本当に日本の農業と農村は発展するのだろうか。
 いずれにせよ、人間社会の土台を支えている農業などのモノ作りを軽視し、情報や金融や不動産が中心を成す産業社会の未来には、希望が持てないし、人間性喪失の社会となっていくのではないかと危惧している

第4回 平成の農政大改革への危惧 2006.4.24

環境にやさしいリサイクル活動として、生活ごみの回収分別作業が、各地方自治体で定着したかのようだ。燃えるごみ、不燃ごみ、資源ごみ(リサイクル)の三つに大きく分けて回収される。私の住む集落では、そのうち不燃ごみと資源ごみは毎月一回、細かく九種類に分別して回収しているが、その末端の作業は、七〇歳以上のお年寄りの仕事となっている。私は集落の自治公民館の班長をしていた関係で、先日、このごみ収集作業に出向き、朝の七時〜八時まで、公民館前の空き地で、お年寄りのお二人を手伝った。次々に持ち込まれるごみを種類別に分別して間違いないように収納するが、生憎の強い風雨の中で行うのは正直いってつらいもの。これが猛暑の夏や真冬の寒風の中での作業であれば、なおつらいだろうと思った。献身的に働くお二人の姿に感銘を受けたが、仕事の合間に「もうこの三月でこの仕事は辞めたいが、次にやる人がいない」とつぶやくお二人の話に、「集落の消滅」が私の頭の中をふとよぎった。
 後継者が育たない農村では高齢化・少子化がすすみ、集落の共同作業もままならず、耕作放棄地も増えて、農地は荒れている。加えて国際化で安い海外の農産物が大量に輸入されるようになり、わが国の食糧自給率も四〇%まで低下し、世界一流の食糧輸入大国に変貌した。
 戦後六〇年を迎えた今日、農業の担い手の多くも六五歳を超え、農村の高齢化率はさらに加速し、一人暮らしのお年寄りも増加している。後継者は依然として不在なため、このままでは集落の維持すら危ぶまれている。私の住む集落も高齢者が多く、すでに朽ち果てた家屋や納屋も増えている。
 全国の農村集落数は一四〇、一二二(平成二年)から一三五、一七九(平成十二年)と、この十年間で四、九四三(三・五%減)もの集落が消滅している(農水省「農林業センサス」。まさに農村コミュニティそのものの崩壊であり、「老いる村」から「消える村」への変貌である。わが国産業の就業総人口に占める農業就業者の割合もわずか三%、国民総生産(GNP)に占める農業生産物の割合も一・五%になり、すでにわが国の社会と産業の中で農業・農村の占める地位は極めて低いものとなっている。
 一方では、今多くの国民が迫り来る地球規模での食糧危機と、最近のBSEや鳥インフルエンザなど、食の安心・安全性への危惧から、わが国の四〇%という食糧自給率の異常な低さに気がつき、その向上を訴え始めている。しかしながらそれを担う農家数は減り、農村社会そのものが崩壊しようとしている農村の現実には何故かあまり目を向けていない。
 そのような中、政府は本年二月に、これまでの農業政策を抜本的に見直すとして、「品目横断的経営安定対策」という新農業政策を打ち出した。これは今までのバラまき的な農家への補助金制度を改めて、経営面積四町歩以上(北海道は一〇町歩以上)の農家、あるいは営農集団として二〇町歩以上の集落営農に限定して所得補償を行うとするものである。要するに多くの小さな農家を切り捨てて、足腰の強い農家を育成するという大改造である。机上のプランでは一農家が四町歩の農地を集積するのは簡単に出来そうだが、実際の山間部農村の現場においては、点在する小さな農地を集めるのは並大抵のことではない。仮に四町歩の農地を集めることが出来ても、飛び地からなる四町歩であり、移動距離多くして、トラクターなど機械作業の能率も落ちる。結局のところ、規模拡大しても生産効率は上がらない。また仮に規模拡大出来たとしても、集落は益々人が減り、少数の大規模専業農家のみになった場合には、その集落周辺の山、川、水路、公園、神社やごみ回収作業など、環境や施設を維持管理していくことは難しく、農村社会そのものの崩壊につながる恐れがある。集落には、兼業農家、小規模な農家、高齢農家、農的暮らしの人々など、多様な人々が多様なかたちで暮らしているのであり、これら構成員の共同作業によって地域が成り立ち、守られていることを忘れてはならない。また補助事業打ち切りで、小さな農家の農業放棄により食糧自給率はかえって下がる可能性がある。 その意味で農村という人間の集落社会のことが欠落し、生産主義に偏重する今回の新農業政策には問題が多く、異議ありと言わざるを得ない。

第5回 感謝して命をいただく 2006.5.22

 農薬を使わないアイガモ農法は、環境にやさしく安全な米を生産する農法として注目されている。水田を泳ぐアイガモ君の姿は人の心を和ませ、子供たちにも抜群の人気がある。今では農業や命の学習の教材としても保育・幼稚園や学校教育に広く取り入れられている。
 しかしながら、一方では水田での働きが終わった後のアイガモを、処分して食べてしまうことへの非難の声が、いつも消費者から寄せられてくる。「田んぼで人間のためにあんなに働いたアイガモを食べるなんてひどい」、農家の子供たちからも、「お父さんより働いたのにかわいそうだ」との声。これにはアイガモ農家のお父さんたちはみんな悩んで困っている。
 よく考えてみれば、毎日、スーパーで買う肉、魚、牛乳、野菜、果物、お米などの食材もすべて命があったはず。社会の分業化がすすみ、食材を自ら生産しないで、お金で買うために命の存在を忘れてしまったに過ぎない。だから消費者や子供たちが、田んぼで懸命に働く愛らしいアイガモ君を見て、久々に命を感じたのである。これは大変喜ばしい非難として受け止めなければならない。故にアイガモ農法は、「命を育み命をいただく」という農業の本質を教えていく上で、優れた教材でもあり、すばらしい教育力を秘めている。長年、アイガモ農法での米作りを実践する私の地元の竹子小学校でも、雛から大切に育て上げたアイガモを食べるかどうかで子供たちの大激論が真剣に繰り返される。「食べる」という結論が出たら、私ども夫婦も手伝って、子供たちと一緒にアイガモの裁き方から始まり、アイガモ鍋料理をつくり、最後は皆で感謝して食べる。子供たちは「かわいい、かわいそう」という気持ちと「おいしい」という相矛盾する気持ちを素直に飲み込むのであろうか、最後は賑やかな食事となる。鹿児島市内でアイガモ農法に励む橋口孝久さんも、十数年来、地元の川上小学校の子供達とアイガモで命の学習に取り組み、すばらしい教育成果を上げている。
 かって大学で教鞭をとっていた頃、毎年、講義の冒頭で学生たちに、「いただきます」の意味を聞く事にしていた。まず食事の時に、手を合わせ「いただきます」と言って食べる人に挙手を求めると、わずか全体の二割程度。手を挙げた人にその意味を尋ねてみると、「両親への感謝」や「作ってくれた人への感謝」が圧倒的である。
 そもそも「いただきます」が、「他の命を今日も感謝していただきます」と理解する若い人が圧倒的に少なくなっていることに唖然とする。家庭や学校の中で、祖父母や両親あるいは先生から、「いただきます」の意味を聞かされたことはあるのかと問うと、殆どの学生が無いと答える。
 自然界は食物連鎖で成り立ち、お米、パン、野菜、果物、魚、肉、卵、ミルクなどすべてに命がある。そこには命の連鎖があり、その頂点に人間が立っている。生きることは「他の命」を毎日いただくことであり、生き続ける程に、たくさんの他の命を背負っていくことを意味している。長生きする人ほど他の命を犠牲にして生きている。こう考えるともう自分ひとりの命ではないので、自分の命はもちろん他人の命も大切にしなければならないことに気づく。
 「いただきます」を英訳することは難しく、他国語にはない日本独特の言葉であり、日本人が誇れる伝統的な食の文化を意味している。お金さえあれば、スーパーで食材を買い、レストランで食事が出来、そして膨大な量の食べ残しをするようになった今日では、食べものに命があることを多くの日本人が忘れ去ってしまったようだ。
 学校によっては昼食時、担任の先生のピーという笛やドーンという太鼓の合図で一斉に子供たちが食べ始めると聞いた。これは「いただきます」が仏教用語のため宗教行事とみなされ、公的な教育現場では使えないからという理由からだそうだ。しかし「いただきます」はすでに仏教用語をはるかに超える日本人の食文化用語として、深く根付いている。笛の合図でスタートする寒々とした食風景よりも、手を合わせ感謝の意味をこめた「いただきます」の方がほのぼのとした気持ちになる。
 もし日本の家庭や学校教育の中に、「いただきます」の教育が厳然と生き続けているならば、最近の信じられないような、他の命を忘れたおぞましい殺人事件も起きないのではないかと考える今日この頃である。

第6回 農の風景「棚田」を守る 2006.6.19

 
緑が映える六月、南九州の農村部はどこも田植えの真っ盛り。農村が一年で最も活気づく季節でもある。私の住む山里の水田も、畦の草刈り、草焼き、田起こし、代かき、田植えをする人など、今が一番人で賑わっている。「お父さん、今日も田んぼに人が沢山出ているよ」と、家に駆け込んでくる女房が、浮き浮きとして語りかける。
 竹子地区の網掛川の源流域には、昔ながらの小さな棚田が広がっている。我家から見える南側の山際には、石垣造りの見事な棚田が三段、際立って並んでいる。そこではいつもお年寄りの夫婦が、丹念に米作りを続けている。石垣の間に生えた雑草も丁寧に取られ、美しき石垣棚田の景観が保たれている。先日、その棚田の田植えの最中に訪ねたら、サラリーマンの息子さんが手伝っていた。お母さんが私をみて、「私たちも年取ったし、この棚田を引き継いでもらおうと、今年から田植えが出来るよう鍛えているのです」と、うれしそうに応えた。私には石垣棚田の後継者が出来た三人の親子の姿がなぜかまぶしく光って見えた。
 山間部の農村に入ると、階段状の棚田が、山の裾野から天辺まで、急斜面に延々と切り拓かれ、壮大な景観を生み出し、様々な形をした無数の水田が、寄り添うようにして見事な曲線美を描いている。私はこのような風景に出会う度に、万感胸に迫るものがあり、何故か涙が込み上げてくる。
 「風景に魂がある」というのはこういうことを言うのであろうか。人々の「生きたい」という執念が、山の頂きまで耕し続けたのであろうか。「耕して天に昇る」と称される棚田には、この地で生きようとした壮絶な人々の汗と執念が込められている。
 棚田とは、二〇分の一以上の傾斜地にある水田のことを言うが、これに該当する棚田は全国に二二万fもあり、これは全国水田面積の八%に相当し、東京都の面積とほぼ同じ。棚田は傾斜地にあることから、水田の区画を大きくすることは困難であり、等高線に沿って造られるため、形も真っ直ぐには整えにくく曲線となる。畦草刈りや畦塗りなどの手間のかかる作業量の割には植え付け可能な面積が小さ過ぎる。農道の整備も遅れている。故に農作業の効率が悪く、生産性も極めて低いため、米の減反政策が始まると、真っ先に耕作放棄されてきた。今日では、今までなんとか頑張って、祖先伝来の棚田を守ってきた人々も高齢化し、さらに耕作放棄がすすんでいる。
 「太古の昔より先人たちの築き上げてきた棚田を守りたい」と私は切に願っている。何故なら人が生きるために耕し続けてきた棚田が、一方ではいつのまにか、山に降り注いだ多量の雨を貯え、自然ダムの役割をして、洪水から日本の国土を守ってきた。また棚田は森林で涵養された清らかな水を貯え、豊富な地下水を生み出す源泉ともなっている。さらに今では棚田は「東洋のピラミッド」と絶賛されるように、アジアが誇る歴史的な文化遺産でもある。
 市場原理・競争が横行する今日、非効率的な棚田を守ることは、時代錯誤とみる人々も多いようだ。しかし山里の景観を彩る美しき棚田、治山治水としての棚田、文化遺産としての東洋のピラミット、そして何よりも先人の流した汗を想うとき、日本人の誇りとして守りたい。そしてミネラルを豊富に含んだ清らかな山水で育てられた棚田の米は大変美味しく、それを食べたいと願う。
 我が家の奥の網掛川源流域に、切り開かれた小さな二十数枚の石垣棚田がある。戦後営々として築き耕してきた老農家が、病に臥され耕作放棄となり荒れ始めていた。五年前に、この棚田復元を目指して立ち上げられた鹿児島大学の「網掛川流域環境共生プロジェクト」は、現在、地元の竹子共正会に引き継がれ、都市消費者の支援を受けた「田主制度」として新たな展開をみせ、石垣棚田が見事に蘇っている。
 日本全体に目を向けると、棚田を持つ各地の市町村長や、棚田に熱き思いを寄せる人々によって、平成七年に「全国棚田連絡協議会」が設立され、毎年、棚田サミットが開催されている。さらには地方自治体や有志グループによる「棚田オーナー制度」が立ち上げられ、都市住民の支援を受ける運動が各地で始まっている。政府も棚田維持のため「中山間地直接支払い制度」をようやく立ち上げた。
 情感あふれる農の風景「棚田」を守る運動はこれからである。

第7回 食料輸入超大国の行方は 2006.7.24

 
スーパーに買い物に行くと、安い外国産の食材がズラリと並んでいる。買い物客はつい安い方に手を伸ばしてしまう。毎日、食卓に上がる食べもののうち、どのくらいが外国産であるかを、認識して食べる人はまず少ないだろう。
 わが国の約四〇年前の食糧自給率七〇%が、現在四〇%にまで落ちた。四〇%という数字自体が、他の先進諸国に比べても異常に低い。フランス一三〇%、アメリカ一一九%、ドイツ九一%、イギリス七四%である。また他国の食糧自給率が右肩上がりに比べて、わが国のみが右肩下がりで推移してきた。つまり先進諸国は高い工業力を有しながらも、自国の農業を守り発展させているのに対して、わが国だけが農業を軽視し続けている。
 こうして日本は世界有数の食糧輸入超大国となっている。かって大英帝国時代を築き、世界を支配したイギリスは、食糧自給率を三〇%台にまで低下させたが、その後の反省から現在七〇%台にまで回復させているのは、同じ島国として注目すべきことである。
 食糧自給率四〇%というのは、わが国の農地面積が約五〇〇万fなので、残り六〇%の農地約一二五〇万fを外国に依存していることを意味している。わが国の約二・五倍もの農地を借地していることになる。毎年、農地の砂漠化や工業用地・宅地化で、世界の農地面積の伸びが鈍化している現状を見れば、農地の海外依存がいつまで持ちこたえられるのか甚だ疑問である。
 輸入食糧の生産にかかった水を水消費に含めて計算する「仮想水」という概念がある。例えば精米一`を作るのに約八d、小麦粉一`作るのに四d以上の水が、また、牛肉は一`に対して七〇〜一〇〇dの水が必要と推定される。
 「仮想水」から考えると、国内生活用水の年間使用量八九〇億dより多い一〇〇〇億d以上(約一・二倍)の水を海外に頼っていることが、文部科学省の総合地球環境学研究所の調査で明らかになっている。世界各地で水不足が深刻化し、水をめぐる争いが頻発すると心配されている。
 雨の多い日本では、水は豊富にあると考えがちだが、輸入食糧の背景にある水分を考慮すると、世界的な水不足の影響を直ちに受けることになる。
 鶏肉、豚肉、牛肉や乳製品などの畜産物がそのもの自体は国産であっても、多くの飼料をトウモロコシなどの輸入穀物に頼っているため、畜産物が全体のわが国食糧自給率を実質引き下げている主要因となっている。故に食卓が畜産食品で賑わっていること自体が外国依存を意味している。家畜の飼育頭数が多く、畜産王国といわれる鹿児島県も食糧自給率低下の一端を担っていることになる。
 わが国の食糧生産の場である農村を見ると、四十五年前に六〇四万戸あった日本の農家は、現在二九三万戸となり、三一一万戸(五割減)も激減した。さらに今日では農業従事者は六五歳を超える高齢者が五割を超え、後継者は育たない。 
 このままではどんなに声高に食糧自給率の向上を訴えても、国内生産量を増やす活力は落ちている。加えて平成の農政大改革により、圧倒的な数の小規模農家が切り捨てられれば、食糧自給率の向上はまず期待できない。
 輸入品目第一位のエビの輸入先は東南アジア。しかしトロール漁法で天然エビを乱獲し枯渇したため養殖エビに変わったが、養殖場造成で海岸線のマングローブ林を破壊している。加えてエビの高密度飼育と抗生物質多投で水の汚染が進行している。
 国内でも、大量の輸入食糧や飼料に由来する窒素過剰(家畜糞尿など)で、国土の環境汚染が進んでいる。そもそも食糧を遠隔地から持ち込むこと自体が、地域内の資源循環を断ち切ることになる。このように食糧の海外依存は国内外の環境破壊・汚染に関与していることも忘れてはならない。
 なお輸入食品をめぐる安全性も、残留農薬やBSEなど、問題が山積している。
 今後のWTO交渉では、すべての農作物の関税引き下げは避けられそうにない。日本は輸入農作物におされ、二〇一〇年には七割の食糧を輸入に依存するようになるとの予測もある。消費者は食糧自給率四〇%問題にもっと関心を寄せ、市場原理や「安ければよい」だけでは済まされない今日のわが国の食糧・農業問題を、もっと真剣に考えてほしい。


第8回 二度と戦争を繰り返さない  2006.8.28

今年の八月十五日で終戦六十一年目を迎えた。
 六十年を過ぎた今日、憲法九条の改正問題が急浮上している。改憲の積極的な賛成者は、近隣諸国からの侵略の防衛や抑止のために、また海外に派兵して国際貢献もできるようにするために、軍の保持を明記して自衛隊を疑いなく合憲にしようと主張する。さらに現憲法はアメリカに押し付けられたもので自主憲法ではなく、また今日の世界情勢にも合わないなどを、憲法改正の根拠としている。
 第二次世界大戦では、軍人二百二十万人、一般人九十万人、計三百十万人もの日本人が犠牲になった。世界全体の戦死者数は五〜六千万人とも言われている。最前線で戦ったのは、為政者や軍の首脳部ではなく、多くは一般庶民の兵員であった。しかも戦闘で死んだ者より、餓死や精神病者が多く、ビルマ(現ミャンマー)に送り込まれた日本兵約十万人の犠牲者の多くはジャングルの中をさ迷う餓死・病死者であったという。
 さらに特攻隊の悲劇は周知のこと。万世飛行場の特攻隊員を見送った女子青年団員のMさんは、「日本を救うため本気で戦っているのは大臣でも政治家でも将軍でも学者でもない。体当たり精神を持ったひたむきな若者や一途な少年たちだけで、あのころ、私たち特攻係りの女子団員はみな心の中でそう思うておりました。ですから、拝むような気持ちで特攻を見送ったものです。特攻機のプロペラから吹きつける土ほこりは、私たちの頬に流れる涙にこびりついて離れませんでした。」(作家・神坂次郎氏の対談から)。
 死者の多くが軍人だった第一次大戦に比べて、民間人の犠牲が軍人を上回ったことが第二次大戦の新しい特徴である。戦争が軍人だけではなく、多くの非戦闘員を巻き込み、いかに悲惨なものであるかは、島民をも巻き込んだ沖縄戦争、三十万人死者を出した広島、長崎の原爆投下、多くの住民を虐殺したベトナム戦争、そして近年の中近東での戦争など、枚挙にいとまがない。戦争は子供、女性やお年寄りなどの民間人をも犠牲にすることを忘れてはならない。
 戦争を体験していない人たちに、戦争が多くの一般庶民を巻き込み、いかに愚かな行為であるのか、その残酷さとむなしさを伝えることは難しいが、でも伝えることはやはり大切なことである。NHKの朝のドラマ「純情きらり」は戦前の戦争一色になっていく日本の姿がリアルに描かれている。また本紙の「証言―語り継ぐ戦争」、八月十日から五回連載された「戦没船の遺言」は戦争や民間人の悲劇を語り伝えるものして見過ごすことの出来ない大切なシリーズである。
 終戦の昭和二十年、私は幼い三歳であった。〃三つ子の魂〃というが、筑紫平野の鳥栖市で生まれ育った終戦前後のことを実によく覚えている。
 空襲警報のサイレンが鳴ると、あわてて電灯を消し、庭の片隅に造られた防空壕へ家族全員で逃げ込んだ。爆弾を搭載した敵機B29の不気味な音が上空を通り過ぎるまで、かび臭い防空壕の中で息を潜めていたことを思い起こす。その後戦況が厳しくなり、田舎に疎開した。疎開先から、大空襲で真っ赤に燃え上がる久留米市の夜空を眺めていた。何故か、逃げ惑う人々のことよりも、花火のような美しい夜空に見とれていた。人影を見つけると、急降下して機銃掃射で、逃げ惑う多くの幼友達を殺戮したグラマン機のこと。筑紫平野の田んぼで、空襲警報が鳴り、乳母車の弟を路上に残したまま、母とあわてて田んぼに逃げ込んだ時の恐怖感が焼き付いている。
 終戦直後、食糧難で母の着物をリュックに背負い、農村に出かけては米と物々交換して帰ってくる父の姿。一度は父と一緒に農村に出かけ、列車から降りたところでヤミ米を検閲する警察官に捕まり、リュックに詰めてあった米が没収された。その時の父の哀れな姿に、屈辱感を幼な心に味わったことも記憶に鮮明である。
 ふりかえれば、戦争が終わって、日本人の多くが心底から思ったことは、「もう二度と戦争はしたくない」という平和の願いではなかったのか。それが今では非現実的なものとして、風化しつつあるのであろうか。
 〃国権の発動たる戦争を放棄し、陸海空軍その他の戦力は保持しない〃とする憲法九条。この人間としての高き理想をあくまでも求め、平和を築く外交努力を続けることこそが、戦没者の死を無駄にしないことであり、真の慰霊である。

第9回 田舎暮らしブームに思う  2006.10.2

いま、田舎暮らしがブームである。「農的生活」や「定年帰農」という新語も定着し、各種の支援団体や相談センターなどが立ち上がり、その関係の情報誌も発行されている。戦後の高度経済成長期に、怒濤のように田舎から都会へ流れた人口が、いま静かに逆流し始めようとしているようだ。あるアンケート調査によれば、都市生活者の四〇%が農村で暮らしたいという意向、そのうちの八三%が農村への定住志向だそうだ。
 なぜ今田舎への逆流がはじまっているのだろうか。大地をアスファルトや煉瓦で固め、高層ビルやマンションが建ち並び、建物内は冷暖房完備で季節感も無く、自然が遠のいた都会。電気に頼る都会が停電で機能麻痺に陥ることへの不安感。「隣の人は何する人ぞ」と言われるほど、人間関係の希薄さと孤独感。買い物に行っても、輸入食材が溢れ、偽装表示など偽物が出回り、何を信用してよいか、わからない程の食への不安。
 さらにはリストラや賃金の目減りなどの経済的不安。これらの要因が複雑に絡んで、行き詰った都会からの脱出が始まったのだろうか。だがその底には、利便性と快適さは得たが、生存の根源である食料を自ら生産することから遠ざかっていく、非耕作者としての不安が、本能的に横たわっているようにも思われる。
 加えて約七〇〇万人の団塊世代が大量定年を迎える頃となり、農村に回帰するのではないかと、第二の人生の行方に世間の耳目が集まっている。企業や労働団体は「地方は早急に受け皿をつくるべき」と叱咤激励の声。それにあおられて地方自治体は「相談窓口の開設」や「団塊世代対策費」を捻出したり、中には「土地の無償提供」までして誘致合戦を始めている。
 過疎の田舎にとって、人が集まってくることは、願ってもないことであり、大いに歓迎すべきことではある。しかしながら人材誘致の名の下に行われる昨今の「団塊ビジネス」には違和感がある。民俗研究家の結城登美雄氏の言うように、まるで人をモノとして扱い、団塊世代の争奪戦を煽動するような風潮にやり切れなさを覚えてならない。
 第二の人生をどう生きるのかを静かに深く思いをめぐらしている人々に対して、ビジネスチャンスと捉え、在庫処分セールのように、地方に転売できるほど、人の人生は軽くはないのである。
 田舎に第二の人生を求める人々の中には、退職金をもらい、年金をもらいながら、気軽に悠々自適の田舎暮らしが出来ると、ルンルン気分で考えている向きがある。そしていつのまにか身につけた都市の価値基準で農村をみているせいか、農村が遅れていると落胆する。ついには集落共同体の一員としての自覚に欠けて集落から孤立してしまう。田舎暮らしとは、地域の人々と具体的に向かい合い、共によいふるさとを創っていくことにほかならないことを肝に銘じておいた方がよい。
 一方、受け入れ側の農村にも課題がある。地域に入ってくる新しい風を、どこまで柔軟にふところ深く受止めることが出来るかどうかである。新規に入ってくる人に、専業農家なみの営農を期待したり、田舎暮らしをいい気な遊び人と決め付けて、時代の新しい風を受止めることの出来ない体質がまだ残っているところもある。
 農村自治体への課題は、農業には産業としての役割と、農業が営まれることにより農村の環境や景観が維持されている役割があることへの深い理解力である。
 農業の多面的機能を十分に発揮するためには、規模の大きい農家に絞り支援するだけでは目的を達成できない。農的な暮らしを志向する人や、女性や高齢者など様々な人たちの働きによりはじめて多面的機能が発揮できる。このような人々は行政の言う「農業の担い手」ではないかもしれないが、農村における環境・景観の担い手ではある。
 様々な農家が存在して、多様な農家が共存しているのが農村の本来の姿である。意欲ある新規就農者への支援は大切であるが、同時に農的な暮らしを志向する人々を認知し、受け入れる度量が行政や農業団体に今強く求められている。
 田舎暮らしを志向する人々が,悠々自適に人生を楽しむ一方で、荒廃する農村再生の一員でもあると、自覚して欲しいことを切に願う。一足先に都会から田舎に移り住んだ者として、新しい風となる帰農者に歓迎のエールを送りたい。

第10回 田舎暮らしブームに思う 0-2006.10.2

 
今は十月、南九州の田園は黄金色に一面輝いている。この美しく充実した景観を眺めていると、昭和二十年代の小学生のころ教わった文部省唱歌「故郷」を思い出す。その後、昭和四十年代はじめの大学院生のころ、私の恩師がコンパの最後に皆を指揮して必ず歌ったのも、唱歌「故郷」であった。♪ 一兎追いしかの山
      小鮒釣りしかの川 ♪
 この歌は、もちろんシンプルなメロディーも良いが、歌詞が何よりも胸を打つ。水清く山青く、野にも川にもたくさんの生きものたちがすんでいた故郷。その恵まれた豊かな故郷の自然環境の中で、幼いころ思い切り遊んだこと。さらにはお世話になった父母や懐かしき友だちなど、故郷の人々への思いを寄せ、いずれは故郷へ帰りたいと歌い上げている。自然の美しさだけではなく、そこに暮らす人々の思いにも触れ、故郷の自然と人間のハーモニーを歌い上げた見事な歌である。
 しかしながら昭和五十年代に入ると、私はぷっつりとこの歌を歌わなくなってしまった。それはこの歌の中に描かれている自然と人の情景は、すでにわが国の田園には残っていないと感じたからだ。高度経済成長を成し遂げた現代の日本では、もうはるか遠い昔のことであり、歌うほどにむなしくなるのだ。
 確かに今も緑に囲まれた田園は見た目には美しいかもしれない。だがすでに水は汚れ、生きものはいなくなった田園である。かつて日本の田園を舞った美しいトキも大きなコウノトリも、野生では絶滅した。但馬地方の人々は、絶滅寸前のコウノトリを保護し増殖して、現在、約百羽余を保護増殖センターで飼育している。
 但馬地方の人々はこのコウノトリたちを野生に帰し、いま一度大空に羽ばたかせたいと願っている。だが自然界に放しても、田園には好物の魚介類などの食べものはなく、コウノトリが安心して暮らせる環境ではないことに気付き悩んでいる。それでも地域の住民は一丸となって無農薬の合鴨農法を導入するなど、田園の環境復元に努め、昨秋には、コウノトリの野生放鳥を初めて試みた。今年に入り、二度目の放鳥を行ったが、コウノトリは未だ完全には野生化できず、試行錯誤を繰り返している。最近、食べものの安全性に関連して、特に残留農薬等の問題に消費者の目が向けられているが、本来、安全な本物の食べものとは、トキやコウノトリが舞い、唱歌「故郷」のような、自然界の生きものたちが多様にすむ、豊かな自然環境の中で、その命の循環として生産されたものではないのだろうか。私が合鴨農法を始めた究極の目的は、農薬を使わない稲作農法によって、もう一度、日本の田園に、小鮒やドジョウやトンボなどの、たくさんの生き物たちが帰ってくる風景を取り戻したいことにあった。川に入って遊ぶ子供たち、川や池の土手で釣りをする少年、赤トンボを追う子供、里山でドングリを拾う子どもたちの姿を、再び見たいと願っている。だが農薬を使わない合鴨農法を行う農家は地域ではまだ点の存在にしかすぎず、地域まるごとで無農薬農法を実現しない限りは、実際には自然は戻ってこないのである。
 失ったものは自然だけではない。家族を思い、友を思う心は、何処へ行ったのか。他人を思い、地域を思い、結いの心で支えられた美しき日本人の共同体社会は何処へ消えたのだろうか。圧倒的支持を得て誕生した安倍政権は、「美しい国、日本」をキャッチフレーズに掲げた。「美しい国」とは何か。安倍首相は、それはこの国の伝統文化であり、四季折々の景色と人々の心情だというが、これらは農業の中で培われた文化でもある。少なくとも唱歌「故郷」のような、豊かな自然と人々の心情に彩られた世界が、「美しい国」の姿の一つではないだろうか。その意味で、今日の荒廃する農業・農村の再生政策は欠かせないはずだが、残念ながら新首相は小泉さん以上に農業・農村には関心が薄いようだ。
 私の住む竹子地区のある飲み方の席上、唱歌「故郷」への私の思いを話したところ、その夜の宴の締めは、皆で唱歌「故郷」を三番まで歌おうということになった。歌いながら涙を流すお年寄りの姿を見て、この歌をもう一度歌い続けようと、その時心に固く決めた。私の名刺の冒頭にも、〃唱歌「故郷」をめざして〃と明記した。



第11回 高校・大学教育をゆがめるもの  2006.12.4  

 いま、世間を騒がす「高校の未履修問題」は、多くの普通高校が人間形成の教育を忘れ、知識偏重の大学受験一辺倒に陥っているところに事の本質がある。だが「来春の受験生に精神的動揺を与えないように」と、その一点に集中して、補習授業を行うかたちで、ことの結末をつけようとしているかにみえる。
 この問題は以前からあったことであり、過去に遡って深く反省されなければならない。また「赤信号みんなで渡れば怖くない」でお茶を濁すものでもない。もっと言えば、今回の問題は高校側の学歴偽造、公文書偽造という社会的犯罪ではないだろうか。

 大学入試の受験科目が年々減らされることは、高校教育にゆがみをもたらすと、かって大学の教師として、私は強く反対してきた。だが受験科目の減少は、受験生側からは受験の負担軽減になり、大学側からは受験生確保につながるため、双方の利害が一致して、大学入試科目は、年々減らされてきた経緯がある。これでは高校教育で、バランスのある情操豊かな人間教育がおろそかになるのは当然のことだ。
 その弊害は大学側においても、現実のものとして早くも露呈した。例えば、生物学を履修しない学生が、農学部、水産学部、医学部に、物理学を履修しない学生が工学部にも入学して、大学の専門教育に支障を来たしてきた。その結果、大学側は、高校時代の未履修科目を特別の補習授業として、高校教師を招き実施するという奇妙な事態となったのである。
 大学教師の頃をふりかえると、大学生を相手に悪戦苦闘してきた記憶がよみがえる。大学に入ること自体が目的化していて、一体何のために何をやりたいのか、深く考えていない学生が圧倒的に多いのである。その専門学部を何故選んだかも不明確。また基礎力のみならず総合力に欠けているため理解力の乏しい学生も増えている。これは入試科目を大幅に減らした大学側の責任が重いことは言うまでもないが、一方では、本人の志望を無視し、成績で輪切りして大学に生徒を無理やりに押し込もうとする高校側の問題もある。
 結局のところ、目的意識もなく入学した多くの学生は遊びとバイトに精出し、夜更かしをし、昼の講義は欠席するか、出席しても殆ど眠ってしまうという惨たんたる状況がある。これでは留年生が増えるのも当たり前のことだ。

 このような有様だから、受け入れる大学の教師側の深い苦悩がある。つまり、「学生がどうすれば勉強するようになるのか」、あるいは「その学部の専門領域にどう興味を持たせるのか」など、動機づけ教育に明け暮れ、本来の大学教育の以前のところで、力尽きている。一方ではこの状況に失望した大学の教師が、教育意欲を失い、研究に没頭する側面もある。まさに教育の悪循環となり、中高等教育が危機的状況に陥っている。
 一昨年より、国立大学も市場原理・競争が導入され、独立行政法人となった。これにより徹底した評価主義による予算配分がなされ、生き残りをかけた大学間の熾烈な競争が始まっている。これは事実上、自由競争の名を借りた新国家統制であり、教育研究の自主的で全面的な開花を阻害していくことになるであろう.
 いうまでもなく、高校は大学受験のためだけに存在するのではない。人間としての力をつけるために、生徒たちに何をどのように教える必要があるのか。今回の問題から、教育行政も現場も、そのことをもっと真摯に考えなければならない。
 また高校教育がとかく大学受験に偏重しがちだが、進学者だけが高校生のすべてではない。大学へ進学しない生徒たちの教育が気になるところでもある。進学、就職に関わらず、差別なく全人教育がなされなければならない。

 さらに言及すれば、生徒は先生の背中を見て育つものであり、また先生の生き方や個人的魅力にも惹かれてその教科に興味を抱くものである。しかし教員の評価制度が導入され、情熱ある教員が物を言いにくく、個性的魅力を失ってきているのではないだろうか。さらに教科だけでなく課外活動など多面的な人生経験によって、生徒は豊かな人間性を育んでいくのだが、普通高校の課外活動軽視の風潮は根強いものがある。
 受験勉強には一言も触れず、俳句、短歌や詩などの持つ魅力を、いつも静かに飄々と語ってくれた高校時代の国語のK先生を、私は今でも忘れることはない。