「日の本護謨鉄砲騒動紀」解説
荒唐無稽、支離滅裂など様々な賛辞が耳に入ってくる今日この頃ではありますが、これはいささか読者諸氏、あるいは評論家先生方の買い被りと申しあげておきましょう。いや、なにも謙遜する程慎み深い人格ではないのです。要するに徒然(つれずれ)なるままに自己の才能を溢れるに任せたのみであって努力をしていないと言いたいのです。尊大無比、傍若無人との褒め言葉にあずかろうとの意図があって筆を運んだものではありません。強いて言えば一挙両得、三方一両損的な散文であって、一過性のエンタテインメントに他なりません。確かに一部の書評などに見られるように、歴史観に斬新さを求めはしましたし、読者諸氏の日常に役立つ言語の由来解説などには多少の傾注を致しました。語彙豊富、呉越同舟、焼肉定食は何時の時代にも人生を豊かにしてくれるものとの信念はゆるぎませんが、これを如何に娯楽に転化するかが通解娯楽時代劇作家の使命であろうと密かに思っているなどと言う事を余人に公言しては、つや消しと言うものでしょう。ここにいぶし銀の風格と値千金の乾坤一擲が実現するのであります。平成15年11月 繁多書斎にて

〜第壱幕「序の口」〜  
 
 ぱちん、ぱちんと豆が弾けるような音が止んだかと思うと、部屋の中の緊張した夜気が弛んだように蝋燭の灯までが少し揺らいだ。
 宵の口とは言え、早春の夜気は冷たい。ましてこの時代の夜は現代のそれとは違い、屋敷の外は真の闇であり、人々は一層寒く感じた事だろう。光量の大きな百匁蝋燭と言えども部屋の空気は暖まらないし、隅々までは照らし出してはいない。その薄やみの中から少し掠れた中年の男の声が囁いた。
 「うむ、流石は日の本一の腕前じゃ。河内殿にはかなわぬ。」
 床の間に立てられた将棋の駒を護謨鉄砲で撃っていた保郎河内守歩院人(ほろうかわちのかみほいんと)に声を掛けたのは、この屋敷の主、浅野浪速守在佐ェ門(あさのなにわのかみあるさえもん)であった。在佐ェ門は大坂市中と長野村(現在の河内長野市)を好歌(すくうた)と言う名の大馬で疾駆し、山林、田畑から城に至るまでの地所、建物を商う商人であったが、近年護謨鉄砲鍛冶に目覚め、寝食を忘れる勢いで打ち込んでいる。その製造能力は月産数十にも及ぶとされている。人脈も豊かで大坂の護謨鉄砲界の中心的な人物である。両名の武士のような名は在佐ェ門が勝手につけたものである。
 「いや、まぐれにござりまする。」
 「なにがまぐれであろ。その腕前で謙遜されるは、ちと嫌味というものでござるぞ。」
 在佐ェ門は大袈裟に顔を歪めてみせているが、目もとはあくまで笑みを絶やしていない。この二人年令こそ十ほど隔たるが、肝胆相照らす仲であり、且つ鉄砲仇でもある。南河内は二上山麓に居を構える歩院人は、はじめ小規模な護謨鉄砲鍛冶だったが、ここ2、3年急激に製造量が増し、独自の工夫と優れた意匠で一流を打ち立てた。のみならず自作の鉄砲による射的でも天稟を現し、大坂ばかりか日本全土にその名を知られる存在となった。射的の腕前においては在佐ェ門も一目置いている。
 「まあ、こちらへ参られよ。射的の後にはこの多具屋の枝豆豆腐がよい。ことに抹茶坊葛(まっちゃぼうくず=護謨鉄砲の技の一つ)のように息を殺す射技の後はなおさらじゃ。遠慮せずに召されよ。」
歩院人は在佐ェ門を遠回りに半周して下座の自席に戻った。
 「はは、これはかたじけのうございまする。高蛋低熱でござるな。」
 歩院人は在佐ェ門に勧められるままに枝豆豆腐に箸をつけた。この箸は竹の天削げ九寸の技ものであるが、ここでは重要で無いので解説は省こう。摂河泉一と評判の多具屋の枝豆豆腐についても語るのは後日にゆずろう。
 在佐ェ門は端座したまま、上体だけを回して自分の右後ろに置かれていた大きめの金蒔絵の塗箱を畳の上を滑らせて自分の膝前に据え、おもむろに両手で蓋を開けた。
歩院人は、枝豆豆腐の椀をおろしながら屈み込むようにして箱の中身に視線を注いだ。その目に輝きが刺したのは蝋燭の炎の揺らいだ為だけではなかったろう。在佐ェ門は、蓋を箱の左に置くと、まるで腫物にでも触るような慎重な手付きで中身をこれも諸手で捧げ持った。漆塗りの護謨鉄砲だった。文字どおり漆黒の輝きにつつまれたそれは、鏡のように周囲の物を映し込んでいる。
 「御覧じろ」
 在佐ェ門は鉄砲の表面に映った顔に堪えきれぬと言った笑みを浮かべながら、その鉄砲を歩院人に差し出した。 
〜第弐幕「決意」〜
「越後は長岡と看ましたが。いかに。」
歩院人は遠慮がちに、しかし自信を秘めた小声で呟いた。
「いかにも。流石は河内殿。長岡の石田と申す塗師の手になるものでござる。からくりには多少の工夫はみられるが、さして目新しくも無い。しかし、この塗は格別と評す以外にござらぬ。」
「いかさま。して、その石田なる塗師の素性は・・・。」
歩院人は在佐ェ門の手から受け取った黒光りする護謨鉄砲に息をかけないように上目遣いでながめながら尋ねた。
「やはり気になりましょうな。(石田)三成公の遠縁やも知れぬが定かでは無い。今のところ東西いずれに与するともはかりかねるといったところ。どうやら坂東にも、薩摩にもこれと同様の品を送ったようでござる。」
在佐ェ門は、下唇を突き出し、睨み付けるように歩院人の視線を捉えて続けた。
「地の利から申せば大坂が近い。しかし、この期に及んで我らに与しても利が少ないと考えておるやも知れぬ。」
「確かに大坂には我らの他にも泥(でい)殿や木ノ下殿、堺の刷師殿と勢力が多く集まり、一応の領土は定まっておりますが、越後はもとより越前、越中から美濃、近江辺りには手付かずの領土がございましょう。更に北国は未開の土地にござれば、我らと和合して領すればよいこと。」
歩院人はいかにも彼一流の冷静な分析をしてみせたが、その端正な面上に微かに不安な表情を浮かべた。
「はははっ、河内殿ならそう申されるとは思っておった。我が身が欲深くない者は余人もそのようだと御考えにならるる。その伝でわしが考えるとこうなる。わしが石田なら、この塗の腕前をもって関東に売込み、同時に薩摩、日向にも盟約を持ちかける。そして関東と薩日の仲立ちを申し出る。」
歩院人は護謨をつがえた漆塗りの鉄砲を構えながら片膝立ちに構えた。正面にいた在佐ェ門は片手を脇につきながら射撃線を空けた。歩院人の連射は一瞬であった。4発中3発が王将と飛車角を蹴散らし、1発は的の玉王を揺らしたが倒すにはいたらなかった。
「しかる後に三方から大坂を挟撃すると申されるか。4っつの勢力の内、3っつが動けば残る1つも揺らぐと・・・。」
歩院人が残心を解きながら呟くのを姿勢を戻した在佐ェ門は大きく頷きながら聞き、おもむろに腕を組むと瞑目して重々しく歌を詠んだ。
「時は今 塗を承知の 朝の原」
これを受けて歩院人が下の句を継ぐ。
「蛮と射ぬいて 点を取るらん」
和歌に素養の有る向きには蛇足ながら、この歌には両名の願望と洒落心が巧みに読み込まれている。不粋に現代語訳すれば「今この時、塗(無理)師の存在を知り、浅野の腹は決まった。蛮と(バン=擬音と坂東=関東の掛け言葉)倒して点(天下)をとるぞ」とでもなろうか。この時、浅野浪速守在佐ェ門は石田勢の動静に関わらず(できれば招致して)天下に号令しようと志を表明したのである。
〜第参幕「曲者(くせもの)」〜
浅野在佐ェ門が大いなる決心を保郎歩院人に打ち明けたその時、歩院人が凝然と身をこわばらせ、膝立ちになった。一瞬遅れて在佐ェ門も瞑目を解いた。次の転瞬、両名が互いの背後の蝋燭を目がけで護謨を発射した姿は一瞬にして訪れた闇に消えた。在佐ェ門は懐中から小振りの黒銃身で抜き撃ち、歩院人は用心の為に漆銃に残していた護謨を発したのである。日頃「銭振子(ぜにふりこ)=護謨鉄砲の技の一つ」で鍛えた俊敏の早業であった。ちなみ言うと、この銭振子で使うのはいわゆる一文銭であるが、これに天糸(てぐす)を通して振子とし、天井から釣って的にする。この時、天糸が滑らぬ為にこの時代から穴が四角になったのである。また、後の世の銭形平次という岡っ引が銭を投げて武器としたとされているのは誤りで、実は自宅で護謨鉄砲の稽古に銭振子をやっていたのであって、その姿を下っ引きの八が見誤ったのが巷間に広まったのである。
ともあれ、闇の訪れた在佐ェ門の屋敷では、ややあって曲者の気配。廊下に一人、天井裏に一人。
「在佐ェ門はん、灯消したらあかんわぁ〜。降りられしまへん。」
頓狂な声が天井から響いた。
「なんや、泥(でい)はんかぁ。なんで天井から来まんのや?。」
ごそごそ、カチカチと在佐ェ門が灯を灯すと、今度は廊下側の障子の外から声が掛かった。
「浅野様、保郎様、多具屋でございます。どうか鉄砲をお下げくださいまし。この多具屋良平、幼子を残して死にとうはございません。」
笑いを含んだ言葉が終わらぬ内に障子が開き、一抱えもある大盆に盛り沢山の料理と酒徳利を載せて多具屋が入ってきた。なんと器用且つ無礼に障子を足で開け建てしている。既に緊張を解いていた歩院人と在佐ェ門が盆の上の料理に目をやった刹那、めりめりっという音に続いてどしんと部屋の隅に人間が降ってきた。
「たたたたっ・・・。腰抜けたぁ〜。・・・ああ〜短い人生やったなぁ。帯に短かし助けてちゃぶ台。」
落ちてきたのは一応忍者風に装っていはいるが、とても機敏に働くとは思えぬふっくらとした体つきの中年男だった。浅野家の情武(じょうむ)役、泥酔ノ助(でいよいのすけ)義弘である。多具屋はただの料理屋の主人とも思えぬ身ごなしで瞬間的に盆をずらし、しかも大振りの布巾で料理を被い塵芥から守った。
「泥はん、いっぺん死んでみぃ。あんたは忍者に向かんて言うてるやろ。」
在佐ェ門の声には怒りも含まれていないが、さほどの労(いたわ)りも感じられない。
「ああ、冷たぁ。誰の為に忍者の真似事しとる思てまんねん。痛たた。これじゃ間者やのうて患者やわ。薩摩で按摩してもらわんと・・・。」
「これこれ、字ぃに書かんとわからん洒落言うてどないすんね。ええからはよこっち来て飲みや!」
歩院人と多具屋は二人の会話に慣れているのか、格別に表情を変えずに腕や皿、盃などを配っている。
「後の二人はどないしてん。」
在佐ェ門は盃を手に取りながら泥に尋ねた。
「はぁ、木ノ下はんは、例によっておなごんはんとこやおまへんかぁ?。刷師はんは、急な刷もんがでけた言うて・・・。ああ、腰が伸ばされへんわぁ。これがほんまの曲者やぁ〜・・・ほな一杯いきまひょか。」
〜第四幕「談合」〜
それから一刻(約2時間)の後には、座には程よく酒気がまわり、料理も残り少なくなって来ていた。強いて言えば、泥(でい)がやや飲み過ぎ、多具屋が商売柄多少控えているような塩梅だろうか。
「くどいようやけど浅野はん。」
泥は無遠慮に主(あるじ)を軽く呼ぶ。
「繁太(はんた)はんをなめたらあきまへんでぇ。元が狩人やし、永い事鉄砲鍛冶もしとりま。それにな、大坂のこともよう知ってまんねん。」
酔いに任せて同じ事をくり返し申し立てる泥が言うところの繁太とは、江戸郊外駒の里に住む中村屋繁太のことである。泥が言うように狩りにも出かけるようだが本業は一介の通いの文字彫り職人である。数打ちのできる鍛冶場を持たぬ子沢山の侘び住居だという。しかし幼少のころから護謨鉄砲に寄せるこだわり尋常一様では無く、坂東では護謨鉄砲の祖と評する声も有る。それと言うのもこの時代に全国で標準的に採用されていた射的試合の規範がこの男の発案によるものであったからである。単に規範を早くに著したからと言えばそれまでだが、そのころの全国の兵(つあわもの)がこの規範を尺度に腕を競っていたことも事実だ。
「泥はん、くどいわ。繁太をなめとるんとちゃう言うてるやないか。なめきっとるんやったら相手にせえへんて。」
歩院人に対する時より言葉がくだけているのが両名の不思議な関係を物語っている。
「あのな、繁太はんなぁ、玉川(現在の多摩川)の川上の職人たちとも仲良うしてまんねんでぇ。」
「知っとるわ。九六八(きゅろぱ=九六派との説もある)一族やろ。武蔵の国は欅(けやき)の産地や言うてこだわっとるおっさんや。」
「浅野はん。言うときまっけど、あんたもおっさんやでぇ。わしもやけど。護謨鉄砲しとるんはみいんなおっさんや。」
話の腰が折れる前に歩院人が早口で割り込んだ。
「舞星(まいぼし)殿が近くにおられ、最近ではからくり人形師の恩(おん)殿も加担して連発銃やら魔人銃を造っておるやに聞き及びまする。」
在佐ェ門は、ぶつぶつ言っている泥を無視して、ねじ曲げていた上体を戻すと正面の歩院人に向かって身を乗り出した。
「いや、いざとなれば舞星はこなたの味方につきましょう。こちらには舞星と同門の備前の職人がおりますゆえな。」
「それは先刻承知致しておりますが、両名は同門と言えどもしのぎを削る仲とも見えまする。この世界、親兄弟で信じきれるものではございますまい。」
冷ややかな眼差しの歩院人の顔を下から覗き込むように見ながら在佐ェ門は片頬を緩めながら言った。
「はて、河内殿の奥方もでござろうか。近ごろは相当に腕前をあげられたようだが・・・」
「いや、あれにかぎっては、そのなんです・・・。」
歩院人にしては珍しく狼狽の色が表情にも言葉にも現れている。あるいはこの男の唯一の弱点かも知れない。
〜第伍幕「刷師」〜
浅野家での談合から数日後、ここは多具屋の奥座敷。表向き多具屋は小体な居酒屋を商っている。安くて旨い料理と灘から取り寄せた酒が評判で、武士の客も多いが、10人も入れば一杯で表向きは座敷きはないことになっている。がしかし、実のところ厠(かわや)の奥に四畳半ほどの茶室のような小部屋がある。厠の奥の壁に掛けてある一輪挿しをぐるりと回すとそこにポッカリと秘密の入り口があらわれる仕掛けだ。厠と小部屋は双方の音と臭いを切り離す為に二重の壁で仕切ってあるが、人間が出入りする一瞬に舞い込む臭気は拒みきれない。
「泥はん、遅れて来たらかなんわぁ。しかも自分で用達ししてから入ってこんといてや。」
浅野在佐ェ門は、多具屋自慢の串揚げを頬張りながら左手で泥を扇ぐ仕種をしてみせた。今日の泥は飴売りの身なりで、忍者よりは遥かに板に付いている。
「浅野はん、そらぁないわ。いかに忍びの修行を積んだかて、食うもの食うたら出るもんも出まっせ。しかし、おかしいなぁ〜。わてえらい上等なもんばっかし食うてまんねんで。せやのになんで臭いんやろか・・・」
「その話は、もうええがな。はよから刷師も待ってるんやし」
在佐ェ門が顎で示した部屋の隅に刷師と呼ばれた版元の男がうずくまるように座っていた。この男のやっている版元は堺に有り、浮世絵から瓦版まで引き受け、なかなかに繁昌している。その上がりの一部を当てて子供相手の護謨鉄砲道場も開いており、富商や武家の次三男などが集っている。刷師は急いで参上したらしく顔や手に墨をつけたままで、泥には挨拶もせずに喋りはじめた。
「あっしが聞き込んでめいりやしたとこでは、どうやら本当の敵は薩摩ではねえかと思いやすぜ、旦那。」
まるで上州の無宿者のような口を聞く。
「なにゆえ、そう思うのじゃ。」
「へえ、昨日堺に港入りしやした護謨回船の船頭によると、薩摩の坊さんはやたらと数をこなしてるそうで、日に二つ三つ打ち上げることも珍しくないそうでござんす。」
「ふむ、それは早いな。わし以上かもしれん。しかし、そのような急ぎ仕事では良いものは作れまい。」
在佐ェ門は、串揚げを1本刷師に手渡しながら小首をかしげている。
「いあや、そいつがどうやらそうでもねえようなんで。旦那、こいつをみておくんなせいやし。」
刷師はそう言うと懐に手を入れ、店の屋号の入った前垂れに包んだものを取出して在佐ェ門の膝元へ滑らせた。
「護謨回船の水夫(かこ)の一人に銭を握らせやして手に入れやした。」
在佐ェ門は前垂れの端を掴んで引き寄せると、おもむろに手にとってほどきにかかった。
「むむ、これは!。」
在佐ェ門の手には、これまでのどこの鉄砲とも毛色の違う奇妙な鉄砲が握られていた。
「渡来案具琉(とらいあんぐる)と言うんだそうで、なんでも琉球の方から流れ着いた板切れでこさえたもんだとか。6連発だか8連発だかと言っておりやした。」
「こら、あきまへんわぁ。繁太はんなんぞかもてる場合やおまへんでぇ。強敵は坊さんや。」
言葉の中身の割には妙に陽気な泥は、両手の全ての指のまたに串揚げの串を挟んでもごもご食らい付きながら嬉しそうな顔をしている。
〜第六幕「按摩」〜
「御隠居さん、ちと運動が足りもはんなぁ。ま、今日のところはこんなもんでよか。」
西洋伝来の海路按摩を施す荒木坊位は、地元では坊さんと愛称で呼ばれ大人からも子供からも好かれている。按摩の腕はすこぶる良いと評判で、九州はもとより遠く関東から蝦夷にまで弟子がいるという。また、めっぽう子供好きで、按摩の本職が暇な時は、近所の子供達に折り紙や凧、独楽や竹蜻蛉をこしらえたり、こしらえ方を教えたりと、実に面倒見がよい。最近はとみに護謨鉄砲が気に入り、治療室の一部と庭先に作業場を造り、按摩の仕事が無い時にはせっせと護謨鉄砲作りに励んでいる。
足を引きずって訪れた老爺は、坊位の治療ですっかり痛みがとれたと見えて、しきりに礼を言い、何度も丁寧に頭を下げて帰って行った。
「やれやれ、久しぶりに護謨鉄砲でも作っちゃるか」
患者が途切れたのを幸いに、腰をのばしながら坊位が言うのを按摩の助手も務める妻女が聞き咎めた。
「なんばいいよっとですか、ついさっきも作りよったのに。」
言葉はとがめているが、整った顔だちに浮かぶ表情はにこやかである。余談ではあるが、この妻女の笑顔が見たくて通う似非患者がいるという噂もある。
「あ、そうそう、旦那様、先程、飛脚が二人も参りもして、こげなものば・・・」
2通の書状は別々の飛脚に届けられたらしい。
「おお、魔具南無(まぐなむ)奥様と繁太殿からか。」
にっこりしながら奉書紙の封を開く坊位の横顔を妻女は恨めし気に上目遣いに見ている。
「よその奥様からお手紙ば頂くっちゅうはすかんとです。」
「魔具南無奥様はおいの弟子ばってん・・・おはん焼いちょるんか?。」
と冗談まじりに読み進んでいた坊位の顔が真剣味を帯びて来た。その様子に妻女もただならぬものを感じて黙り込んだ。坊位がこんな表情をすることは滅多にないことといえる。暫く口をへの字に結んで黙り込んでいた坊位は気を取り直したように、もう一つの封を開けた。中身に目をやって急激に普段の柔和な顔に戻った。
「また、こげなあほなもんを。おいを薩摩ば仕切る棟梁に任ずる言うてきちょる。ほんなこつ冗談を本気でやるお人よ。こげな呑気なことしちょる場合やなかとに」
魔具南無と繁太両名からの手紙を見比べて複雑な表情を浮かべた坊位は、今日の護謨鉄砲作りはやめたようだ。
「あす、砦ば行ってくっぞ。」
そう言いおいて妻女を置いてさっさと診療室を出て母屋に向かった。
〜第七幕「砦」〜
トンテンカン、トンテンカンと槌の音がこだましている。春の昼下がり、日向の国の屯天館砦は牧歌的な風景の中で、暖かな日射しに包まれていた。屯天館砦は砦と言うだけあって小体ながら堅牢な造りで、小さな楼閣といった風情である。その昔、異人船からの上陸者や漂着民、村上水軍からのはぐれ者などがこの付近を跳梁する事があり、それに備えて先代の主、不意趣佛句齋(ふいしゅぶつくさい)が築いたものである。現在の当主も不意趣佛句齋を名乗っているが、当代になってからも随所に工夫を凝らし、改修を重ね更に堅固な要塞に仕上げた。皮肉な事に砦の完成と前後して異人や海賊の出現はほとんど止んでしまったが、いざともなれば付近の民百姓を50人も収容して半年は篭城できる広さと食料の貯えがあるらしい。
代々佛句齋は仏壇、仏具から箪笥や長火鉢など木製の家財道具を作る職人であった。名前の佛句齋も元は仏具彩だったとの説も有る。江戸や大坂では道具毎に職人が異なるが、日向のこのあたりでは、一人でなんでもこなしてしまうのである。当代の佛句齋は、先代の存命中から厳しい修行を積み、更に自分流の工夫をこらし、難破した異人船から流失して漂着した西洋家具や長崎遊学で学んだ西洋建築技術を我がものにしている。この時代に何でも屋の新し好きとくれば、しごく当然のこととして護謨鉄砲も手掛けている。いや、手掛けているどころではなく、砦の一画には射的修行場まで設けている入れ込みようだ。
そこへ愛馬蔵運(くらうん)にうち跨がり、さっそうとやって来たのは薩摩の坊位だった。飛び下りるように馬を降りると門脇で鉄砲の握手を削っていた佛句齋に快活に歩み寄った。
「やぁやぁ、元気でおりもしたか。」
佛句齋は手を休めて腰を伸ばし、削り粉だらけの手をはらいながらにこやかに応じた。
「ゆくさ、おいじゃっした。ちいと腰ば痛かけんど、あんべよか。」
「腰。そいはいかん。腰は人間の中心でごあす。早速揉みもそ。」
「ほいじゃ、ご用ば聴きながら揉んで頂きもっそかのぅ。」
二人は手をとらんばかりに並んで砦に入っていった。砦の付近の子供達にとっては坊位は顔なじみと見え、上は12、3の娘から、下は2、3歳の洟垂れ坊主までの数人がまとわりついて一緒に門を潜った。
「今日は、おやっどんと大事な話ばあっと。後で遊んでやりもすで、それまでこいで遊んどき。」
坊位は、それぞれの子供の頭をなでながら袂から取出した小さな独楽を一つづつ分け与えた。
「あいがと」「あいがともさげ」
と子供達は口々に礼を言って再び門の外へ駆け出して行った。
二人が入って行った家は垂直に立てた杉の丸太で囲まれた砦の中の中心に立てられたもので、一見合掌造りのように見える尖った屋根をもっている。しかし屋根は藁葺きではなく、銅板で葺いてある。火矢による攻撃を想定してあるに違い無い。
土間の三和土(たたき)で履物を脱いだ両名は大きな囲炉裏のある部屋に上がり込んだ。
〜第八幕「盟約」〜
腰を揉みながらの坊位と佛句齋の密談は一刻(2時間)程も続いたであろうか。盗み聞きをする者の気配はないが、二人の話声はひそひそとして高い天井に吸い込まれるのみで、辺りには聞き取れなかった。やがて佛句齋が座り直し、何ごとも無かったように立ち上がると明るい声で言った。
「ありがともさげもした。いやぁ〜あんべよか。」
佛句齋は腰をぐるぐると回して、腕を天に突き上げて伸びをし、また小声で囁いた。
「したら、いざと言う時は、いつでんこけけ。」
「しっかし、ほんなこて困ったおやっどんじゃ。」
内緒話しで語られたのは、どうやら筆者の都合と見て良かろう。時代がかった鹿児島弁等使いこなせるものではない。漏れ聞こえた会話から察するに坊位は、戦に備えて佛句齋との盟約を確認し、更に最悪の事態では匿ってほしいとの要望を申し入れたらしい。佛句齋は快諾したようだ。この話は、坊位が自分の弟子であり間者でもある魔具南無奥様からの手紙で浅野在佐ェ門の決意を知ったことによるもので、今日の話の様子では坊位は在佐ェ門と一戦を交える覚悟のようだ。江戸にいる魔具南無奥様から知らせが入るということは、在佐ェ門の動きが中村屋繁太の耳にも入っているのかも知れない。しかし、この時点で、坊位が関東や越後との共謀を考えているかどうかは定かでは無い。砦の固めを促し、いざと言う時に籠ろうということは、大坂を攻めるのでは無く迎え撃つ姿勢ともとれる。
佛句齋は、申し入れを快諾したものの砦を出て共に戦う約定を結んだわけではないし、坊位もそれを要請していない。恐らくは浅野勢が薩摩に攻め入って来ても坊位は屯天館砦には逃げ込まないであろう。薩摩隼人の坊位が篭城しないであろう事は、本人にも佛句齋にも分っていた。自分との篭城を約することで盟友佛句齋が砦を堅牢に固める事を願ったのである。
このあと、坊位は戸口で待っていた子供達につかまり半刻近く遊んでいたろうか。佛句齋が砦の若者達にいろいろと指図をして、早くも篭城の準備に掛かる姿を見ると安心して愛馬蔵運にうち跨がるとゆったりと夕陽に向かって去って行った。砦の門前には男の子とその母親が見送っている。
「ぼういど〜ん。なんちゅあなら〜ん。」
手に握りしめた高高度、長滞空型の竹蜻蛉を腕がちぎれんばかりにうち振っている。
少年には伺い知れなかっただろうが、坊位の背中にはそこはかとない男の哀愁が滲み出ていた。若く美しい母親はそっと目頭を押さえた。
〜第九幕「蝿狩り」〜
「いかん、いかん。直次郎。蝿に近付くには蝿の気持ちにならねばならぬ。鉄砲の先を顔に突き付けられては蝿でなくとも逃げ出したくなる。」
春一番からは一月ほど過ぎたが、まだ桜のつぼみは堅く鎖したままである。しかし、着実に春の気配を感じて虫たちは活発に動きだし、それを肌身で感じる中村屋繁太もじっとしておられずに蝿狩りに出ていた。共をするのは次男、直次郎と二十代後半とみえる青年が一人。三人とも迷彩色の筒袖に野袴という質素な猟装に草鞋履きである。
「よいか、こうして腕をのばし、蝿の面構えを見ながらそろりそろりと近付く。討ち取るまでは息を殺す。」
ピシッと護謨鳴りがするや繁太の発射した護謨は、蝿のとまっていた八つ手の花をゆるがせもせずに、蝿のみを消し飛ばした。繁太が手にしているのは自作の古式猟銃である。
「お見事。」
繁太の背後から眺めていた青年は腰に小振りな連発銃を帯び、右手には折り畳み式の魔人銃を携えている。この青年、名を舞星(まいぼし)といい、相州ばかりか、坂東一円でそれと知られた魔人銃の作り手である。
「繁太さん、放っておいてよろしいのですか。備前の職人さんも気を揉んでいるようですが。」
「うむ。なるようにしかならんでしょう。わしは、浪速守(なにわのかみ)様が好きじゃし、河内守(かわちのかみ)様ともことを構えとうはない。」
二人は、八つ手の花の前で金蝿を追う直次郎から少し離れた蓬(よもぎ)の新芽に被われた枯田の畦に並んで腰をおろした。
「しかし、攻められれば戦わねばなりますまい。大坂勢は大人数で鉄砲の数も揃っておりましょう。更に護謨屋を押さえられては勝ち目はないかと・・・。」
「護謨屋の心配は御無用。しかし、どうしても戦になることが避けられぬとすれば、致し方も無い。この地に招き入れるよりは打って出る方が良いかも知れん。地の利を活かそうにも坂東は平地ばかりじゃ。」
「備前の職人は、私とは知己ですが、間に大坂を挟んでおりますと味方に付けるのは難しいかも知れません。越前の塗職人、薩摩、日向はあてになりませんか。」
「皆、良い御仁じゃ。それだけにお味方をお願いして迷惑をかけたくない。大坂が勝つ見込みが高いのに義理にしばられてこなたへ味方してくれと申すのはわがままと言うもの。」
「何を弱気な事を・・・。大坂勢が孤立し、諸方から囲めば充分に勝ち目はございましょう。ことを起こそうとしておるのは大坂です。正義は我が方にあります。皆味方についてくれましょう。」
繁太はゆっくりと立ち上がると若者を振り返りながら言った。
「大坂に天下を切り盛りしてしももらうのが世の為かもしれませんぞ。我らは田舎者らしく蝿でも追って暮らすのが似合うておるような気もするがのう。」
タタタタタッと軽妙な音と共に繁太の足下に護謨が散った。舞星が魔人銃を発射したのである。繁太の足下から浮れでた蝮(まむし)がのろのろと枯れ田に逃げて行った。繁太はその姿を見ながらため息まじりに呟いた。
「ふうむ。噛まれる前に追い払う事も考えねばならぬかのう。
〜第拾幕「大坂商人」〜
浅野浪速守在佐ェ門(あさのなにわのかみあるさえもん)の屋敷の広間で在佐ェ門と向い合せに座っているのは、大坂の護謨問屋京輪屋の大番頭である。名を中川千武という。京輪屋は大坂のみならず全国的に言っても護謨の老舗で、南蛮から買い付けた生護謨を泉佐野あたりで加工したり、最近は現地で輪護謨にさせて運ばせたりしている。この店で定めた十二番護謨の寸法が一文銭を基準にしており、護謨鉄砲では装填時に引き伸ばす長さの基準にもなっている。いわゆる引値または引致(インチ)の起源である。試しに共和年間の寛永通宝を計ってみれば、正に2.54センチである。護謨の歴史を語り始めると再現が無いので止めるとして、この中川千武、さほど大柄でもないのに威圧感があるのは貫禄というものであろうか。上座に座った在佐ェ門に慇懃で腰は低いが、どこか毅然とした態度で相対していた。
「あきまへん。それはでけん相談ですわ。」
千武は少し上体を反らしながら両手の平を在佐ェ門に向けて激しく振った。
「なぜじゃ。その方、大坂の商人(あきんど)であろうが!。なぜにわしに味方ができんのじゃ。」
在佐ェ門は、自分も胸を張ると、口を蝦蟇(がま)のように一文字に結んで中川千武を恫喝した。
「浪速守様、それでんがな。大坂やさかいにあきまへんのや。貴方様が商っておられる城や家屋敷とちごて、護謨は他国に買うてもろて何ぼのもんだす。それも安定供給しとるから信用されとりまんのや。この信用は、だた京輪屋の信用とちゃいます。大坂商人の信用だす。」
千武は、まるで大坂中の商人の代表のように大仰に目を剥いて言い募った。そもそも、浅野在佐ェ門の申入れは、在佐ェ門がよしと言う迄、護謨の大坂以外への出荷を止めろとの事だったのだ。来るべき決戦に備え、弾丸である護謨を牛耳ろうとの計略である。
「大仰に申すな。ほんの三月もとめればよいのじゃ。わしが天下をとれば、京輪屋は御用商人じゃ。」
「いやいや、鹿児島や関東あっての京輪屋だす。それに手前どもが浪速守様にお味方しても、その間に商売敵の福番頭(ふくばんとう)やら責駄印(せめだいん)が売り捌きまっしゃろ。なんにもならしまへん。」
流石に大店(おおだな)の大番頭ともなると状況把握が的確でライバルのことにまで頭が回る。
「あ、いやいや、よその護謨は心配せんでもええねん。護謨鉄砲に限っては、全国どこでもその方の店の大伴奴(おおばんど)十六しか使わん。捨ておいてかまわん。大伴奴こそは、信頼の銘柄よのう。よその屑護謨などなんぼ買い込まれても恐ろしゅうはないわ。」
在佐ェ門は、武士のようにふるまっていても根が商売人。よいしょも忘れてはいない。
「ははっ。これはお上手を・・・。参りましたなぁ。」
中川千武は、腕組みをして暫し瞑目したのち、パチンと膝を打った。
「よろしおま!。わても堺の商人だす。天下の京輪屋の千武だす。お申し入れ通りに致しまひょ。浪速守様がよし、言うまでは金輪際、他国への護謨の出荷は致しまへん。」
「おお、おお、よう言うてくれたぁ」
在佐ェ門はにじり寄ると中川千武の手を両手で握りしめ、涙さえ浮かべている。
「おっと、ただし、一つだけ条件がおます。その間は、南洋から護謨を運んで来る千石舟の荷は全て浪速守様か、そのお仲間にお買い上げ頂きます。そうすれば外へは出んし、大坂に護謨は備蓄でけるし万々歳やぁ」
「・・・し、しかし、全国分を引き受けるとなれば莫大な・・・」
「これぞ、信頼関係でんなぁ。浪速の商人は助け合ってこそ本領発揮しまんのや。わての度量が狭もうおました。いやあ、浪速守様のおかげで目ぇが醒めました。おおきに、おおきに。」
今度は腰が引ける在佐ェ門の手を中川千武が離さない。
〜第拾壱幕「升込み」〜
結局、京輪屋の大番頭中川千武の方が一枚上手だった。全国の護謨の消費量は大坂のそれの十倍以上。しかも浅野浪速守在佐ェ門の勢力が大量の護謨を消費すると言っても、大坂全体の消費量の万分の一にも満たなかったのである。つまり全国の護謨を一手に押さえようと思えば、浅野勢は護謨代を平素の十万倍出費しなければならないのである。いかに豪商とは言え、在佐ェ門も躊躇せざるを得なかった。中川千武の腹は決まっていたものと見え、他国にも特に肩入れをしない事を約して大量の大伴奴(おおばんど)十六番を土産において帰っていった。
京輪屋を味方に付けられなかった浅野浪速守在佐ェ門は、次に升込みへの売込みを考えだした。瓦版や辻説法、芝居小屋などの大規模なもの、影響力の有るメディアを当時の庶民は、「升込み(ますこみ)」と呼んでいた。庶民は豆を買う場合に1合単位で買っていたが、豪商や裕福な武家では、担い売りの豆屋から升ごと買い占めるので、これになぞらえて束にして扱う事を「升込み」と呼ぶようになったらしい。
手始めの嫁売り瓦版が大当たりだった。大坂に本店を持つこの瓦版屋は、子供がおらずに手の空いた武家の嫁に売り子をさせる事で全国に支店を出す迄に成長した。品(ひん)が有り人当たりの良い武家の嫁や若後家は商売は下手だがゴリ押しをしないのが好まれた。更には教養があるので、屋敷に上げられて茶菓のもてなしを受けながら瓦版を読み聞かせるサービスも好評だった。
「またまた、取材の申し入れやでぇ。」
浅野家の情武(じょうむ)役、泥酔ノ助(でいよいのすけ)義弘は、まめまめしく在佐ェ門の座敷きと玄関口を往復しては、在佐ェ門に目通りの口上を伝えていた。
「それにしても浅野はん。なんで直接玄関にいかはらしまへんのや。わて、ちかれたわ。」
在佐ェ門は、座敷きでごろりとしてスケジュール表を眺めながら呟いた。
「有名人には豆忍者が付きもんや。役者でも坊さんでもみなそうやろ。店でも芸人でも、偉いもんはみぃんな豆忍者を通して話すんや。」
余談であるが、ここでいう豆忍者が、ペリー提督の一行の口伝えでアメリカに渡り、現代のマネージャーの語源となったとの説がある。
既に照れ日に4回、瓦版に2回取り上げられた在佐ェ門は、大坂ではちょっとした時の人になっていた。升込みの力は凄いのである。「照れ日」とは、掛け小屋芝居の一種だが、非常に上手くできた報道システムといえた。まずは、角座や中座で本人が技や芸を披露する。この時、はじめての出演者が大いに照れるので、その日を照れ日と言った事が語源。その席の客の中の半分は「照れ日」役者で占められており、熱心に舞台を観察している。舞台に幕がおりるや否や役者どもは楽屋へ殺到。予め用意された当日の舞台出演者と同じ衣装と似顔絵の面を受け取ると各地へと散って行く。大坂一円の30〜50箇所の粗末な掛け小屋では、その日の内に、舞台の様子が役者達によって本物そっくりに再現されるという寸法だ。勿論、在佐ェ門の護謨鉄砲の腕前までをコピーすることはできないので、そこはいろいろに工夫と演出で補われる。これがまた不正確なるがゆえに面白おかしく、時には大袈裟に伝達される要因となる。
大坂の庶民は、この照れ日が大好きで、また面白がり屋が多い。一門に加えてくれ、鉄砲を売ってくれ、嫁にしてくれと、浅野家の門前は連日のにぎわいで、多具屋が出店(でみせ)を設けるほどの人出であった。
〜第拾弐幕「鉄砲鎧」〜
浅野浪速守在佐ェ門が大坂で大人気となっていたちょうどその頃、奇しくも薩摩の荒木坊位も地元の照れ日に呼ばれる事しきりであった。
 ある時は護謨鉄砲、ある時は竹とんぼと多才な芸を披露していたのである。しかも薩摩の照れ日は、大坂や江戸のそれと異なり、連日同じ出し物を続けるのである。勢い地元の名士と言う事になる。お城の殿様なんぞろくに顔を見た事も無い庶民にしてみれば別世界の人であり、親しみが湧くものでは無いが、照れ日で見る人物は親近感が湧くと言うもの。この日も坊位の鎧造りが各地の小屋で上演されていた。坊位は、その多才な芸の中で鎧造りも得意としていた。鉄砲足軽の具足から絢爛豪華な大将の大鎧まで何でも作る。中でも一番得意としているのは鉄砲鎧であった。護謨鉄砲での戦いを想定したもので、軽量で活動的、それでいて隙がない。後の世で西郷隆盛も着用しという鉄砲鎧は、この時分に荒木坊位が考案したものを基礎としていると言われる。銃撃戦で有名な田原坂の戦いでも多くの将兵がこの鎧のおかげで生き延びたとさえ言われている。しかし、これは後の世のことで、坊位が今を盛りに作っているのは本物の鉄砲には耐えられる代物では無い。木っ端やキビ殻、紙等を巧みに利用して見かけこそ頑強そうでも実に軽く、敏捷な動きにも支障はない。ともあれ、この前後に坊位の鎧造りの仲間は、急速に増え、護謨鉄砲の仲間にもなった。過日、屯天館を訪問して以来、荒木坊位の組織造りは活発で数百とも千を越えるとも言われる信奉者を持っているらしい。熱し易い鹿児島人は、たとえ軽量で鉄砲に弱かろうと鎧を身に付けた途端に武人に変身するらしく、坊位を取り巻く周囲は完全に戦闘ムード一色と言ったところだ。夏の到来が早い南九州では、4月の末でも軽量の護謨鉄砲鎧を身につければ暑い。そこに薩摩焼酎が注がれれば否応なく身体は熱の塊となり、それに連れて心も熱くなるのである。慎重派の荒木坊位がここへ来て鎧造りに力を入れているのは、あるいは屯天館砦に籠る事よりも打って出る心づもりになっていたのかも知れない。
 魔具南無(まぐなむ)奥様からの密書によれば、坂東勢はいささか頼り無い陣容の様で有る。中村屋繁太の他にもぽつりぽつりと同調者はいるものの、大坂勢の盛り上がり、結束には程遠いと思われる。或いは坂東と手を携えて挟撃をと考えていた坊位は、考えを改めたようだ。口には出さないが、その苦みばしった横顔に決意の程が伺われた。そう、口に出したことはない。にもかかわらず・・・
 「おいは、やっどぉ〜」
 「薩摩が天下をおさめっど〜。まずは大坂攻めじゃ〜!」
照れ日の掛け小屋では、荒木坊位本人が口にした事も無い決意が吹聴されていた。観客である庶民は照れ日のヤラセとも知らず、大いに乗せられているのであった。もはや後へは引けないムードといえた。升込みの影響力とその恐ろしさに坊位は旋律を覚えると共についに出陣の臍を固めた。

〜第拾参幕「進軍」〜
浅野浪速守在佐ェ門が升込みの寵児に奉られ、近畿一円にその名を馳せてから一と月。在佐ェ門の旗下には数千に及ぶ護謨鉄砲軍団が形成されていた。大勢を率いるとなると組織の編成は必定。在佐ェ門は木ノ下茸吉郎を一番隊、刷師の三木一族を二番隊のそれぞれ大将に任じ、自らは総大将を名乗った。浅野家の情武役、泥酔ノ助を作戦参謀と諜報、徴募、後方撹乱、宿泊準備、路銀調達、宴会取り仕切などの兼任とした。賄い方は、勿論、多具屋が任されていた。そして、あろうことか保郎河内守歩院人(ほろうかわちのかみほいんと)を将軍と奉り、あるいは神格化し、大坂勢の結集の拠り所とした。この辺りの組織編成、人材活用、人心掌握に関しては在佐ェ門は希代の人物といえるであろう。
5月の末の一日、生駒山麓で催された蝿狩りで、在佐ェ門はこの組織の発表と同時に保郎河内守歩院人に帝(みかど)より護謨鉄砲将軍任命の詔勅を賜るべく京都へ昇る事を宣言したのであった。因に生駒山の蝿狩りは、大坂、奈良を中心とする摂河泉の護謨鉄砲猟師たちの年に一度の大掛かりな行事であった。旧暦のこの時分に豊富に発生する良質の金蝿を競猟するもので、腕自慢が一日の捕獲数を競うのである。これを支えているのは大坂の護謨問屋京輪屋である。上位入賞者には大八車と京輪屋の最良の狩猟用護謨が授与される。
今年の蝿狩りには、京輪屋以外のスポンサーが付くと言う噂は、早くから巷に流れていた。それが浅野浪速守在佐ェ門であり、優秀な人材に仕官の道を開くと言うものだった。仕官といっても元より在佐ェ門自身が武士ではないので、正確には奉行人として採用するといった程度の事だが、今をときめく在佐ェ門に仕えるというのは貧しい護謨鉄砲猟師にはかなり魅力的な誘いだったらしい。在佐ェ門としては茶飲み友達になろう程度のことを言ったつもりが、またまた升込みによって増幅されてしまったようだ。ともかくもこれだけの人数があつまり、大挙して京の都を目指すとなれば大事である。
「在佐ェ門はん、わての役割多すぎますわ。もうへとへとでっせぇ〜」
枚方の淀川沿いの道をたどる道中で、在佐ェ門と馬を並べていた泥酔ノ助が愚痴をこぼした。
「その、在佐ェ門はんいうのやめいちゅうとるやろ。殿とか総大将とか呼ばんと格好つかへんやん。」
「そういう在佐ェ門はんかて、その物言いは大将とちゃいまっしゃろ。どうでもええけど、わて疲れたわ。」
「もちっと我慢しぃや。あの渡し場の先で「くらわんか舟」つかまえてメシにするから」
馬上から淀川上流方向を指差す在佐ェ門の姿は、会話の中身を知らない者からはさぞや立派な大将に見えた事であろう。民百姓の中には大名行列と間違えてひれ伏す者までいる。
「あ、ごっつう。みなん喜びまっせぇ〜。」
「せやろ。わかったらはよ行って舟呼んで待っとき。」
言うが早いか、在佐ェ門は酔ノ助の馬の尻をピシッと思いきり叩いた。馬は一声いななくと、しがみつく酔ノ助を振り落とさんばかりに揺すり立てて駆け出した。
「またやぁ〜〜〜〜。」
酔ノ助の声はドップラー効果を伴って消えて行った。
〜第拾四幕「お忍び」〜
武蔵野の野はすでに初夏の日射しで、じっとしていても日向では汗ばむ程の土の息吹に包まれていた。しかし木陰を選んで歩けば清々しい季節でもある。深編み傘に顔を隠した武士の少し前を中村屋繁太が歩いている。武士の後ろには一見優男に見える小姓が付き従っているが、その眼差しが異様に鋭く、また身ごなしに無駄が無い事はこの男が並の若者で無い事を物語っている。
「繁太 、照れ日の蚊落としの技は誠か。」
「おそれながら。」
「ふ〜む。あの技が上様のお目にとまったのだが、何時にてもできるものかな。」
背筋が伸び、しっかりした足取りであったが、傘の中から響く声音は、この武士がそこそこに歳をとっていることを示していた。対する繁太は、無表情ではあるが敬意をはらった態度に徹している。
「八割方と申しておきましょう。手前の腕が七割、鉄砲と護謨の善し悪しが一割。」
「ずいぶんと遠慮しておるでは無いか。残りの二割はなんと申すか。」
「蚊の敏捷と風にござりまする。蚊は、背後からの弾風には非常に敏捷で、護謨が届く以前に逃げ去ります。また、風は揺れを呼ぶばかりで無く、匂いを運びます。」
二人と小姓は木陰を抜けて川の土手に突き当たった。
「この先にござりまする。」
繁太は、土手を駆け上がり振り返りながら武士を待った。斜面に取りかかるとにわかに武士が老齢なことが身のこなしに現れたが、繁太も小姓も手を貸さない。恐らくこの老武士がそれを嫌うのを知っているのであろう。
「おお、早くも鮎の匂いがするではないか。」
武士が土手の中腹で感激の声をあげた。
ここは、玉川の流域の中でも特に型も味もいい鮎が集まると言われる場所で、岸辺の松林の様子から通称五本松と呼ばれている。繁太は例年この時期にここで小鮎を捕り、将軍家に献上している。今は、小鮎の遡上の真っ盛りで、小さな落ち込みや急流を遡る為に小鮎が跳ねる姿が見られる。この為、老武士が言った通り、川面を渡る風にまで鮎独特の果物のような香りが漂っているのである。
「ご家老、お足下にお気を付けください。」
「うむ、大丈夫じゃ。気を付けろと言うならば、その方こそじゃ。こたびの出陣、無事に帰ってもらわねばこの鮎が食えなくなる。上様もお嘆きになろう。」
「繁太がおらずとも、鮎は川を忘れはしません。」
繁太の目はキラキラと光る川面の光を映していた。

〜第拾伍幕「日和見」〜
「要するに力を示しておじゃれと仰せじゃ」
禁裏の接見の間で平伏する浅野浪速守在佐ェ門と保郎河内守歩院人に対し、侍従は冷たく言い放った。
京都に昇った在佐ェ門一行は市中を騒がす事を怖れ太秦(うずまさ)周辺に布陣し20日以上に及ぶ嘆願の末、やっとの思いで帝(みかど)の接見を賜る事となった。ここまで漕ぎ着けるには京輪屋の大番頭中川千武の働きが大きかった。一介の大坂商人が帝に接見しようと言うのがそもそも無理な話なのだが、中川千武と同じ京輪屋の二番番頭、前中尾高峰が裏千家との伝手(つて)で、相当な進物を贈り、帝の取り巻きを饗応して懐柔した結果であった。が、しかし、京輪屋がお膳立てしたのも接見までの事で、とてもとても護謨鉄砲将軍任命の詔勅を賜ることまでを取り付けるには至っていない。典型的な公家顔をした侍従は、眉を剃っているのではっきりとそれとはわからないが意地悪く片眉を吊り上げたような表情で在佐ェ門を見下してる。はるか彼方の御簾(みす)の向こうにはうっすらと人影が見えているが、在佐ェ門たちは顔をあげる事もできず、また直接声を聴く事さえできずにいた。
「怖れながら、ここにおわしまする保郎河内守歩院人殿は、まごう事なく日の本一の腕前にござりまする。」
在佐ェ門は平伏したまま床板に向かって陳弁した。
「ふむ、それは京輪屋からも聴いておる。しかしな、徳川の膝元にもなにやら繁太とか申すつわものがおるというではないか。」
「さよう、中村屋繁太は坂東でこそ名を知られておりますが、技量において歩院人殿には遠く及びませぬ。」
「及ぶか及ばざるか、それを示してみよ。」
「ははっ・・・。」
侍従は帝の元へずるずると膝行(しっこう)し、また在佐ェ門の近くに戻って来た。
「帝には強きものが好もしいとの仰せじゃ。それほどに技前に差があるならば繁太やらを打負かしてまいられよ。」
「しからば護謨鉄砲将軍は、その後に賜るとして、討伐をお命じ頂けますまいか」
在佐ェ門は食い下がった。
またもやずるずると昇っていった侍従の耳打ちを聴いたらしく、ややあって帝の声と思しき囁きが漏れて来た。やや興奮ぎみで声量が高かったのと女のようにかん高い声なので、囁いていても漏れて来たらしい。
「・・・繁太が勝ったら・・・徳川に・・・・・・・おじゃれ。」
在佐ェ門は平伏した姿勢で僅かに左隣の歩院人に顔を向けて囁いた。
「あかんわ。帝は臆病もんで日和見(ひよりみ)じゃ。こんなことならとっとと進んでおきゃあよかった。」
「もとより私は将軍などの器ではございませんし・・・。」
2人は、帝と侍従の内緒話しが続いているにも関わらず、勝手に席をはずしてしまった。
〜第拾六幕「西行南下」〜
浅野浪速守在佐ェ門一行が京の都の食料事情を脅かしながら長逗留をしている間に、江戸を発した一団があった。他でも無い中村屋繁太率いる坂東勢である。繁太の地元駒の里の住民100足らずに九六八(きゅろぱ)一門、舞星(まいぼし)とからくり人形師恩(おん)、下総の国からは周防親子が加わった。東海道を登りはじめるにつれて、横浜、川崎からぽつぽつと参加者が有り、清水では坂東でその名を知られた護謨鉄砲の神童、巧少年も仲間入りした。その後も甲斐、信濃などから急を聞いて馳せ参じた者がいたが、しかし、その総勢は一行が掛川宿に達した時でも300人に満たず、大坂勢とは一桁の差が歴然となっていた。半数は護謨鉄砲も持たず、野良着のような粗末な服装の者が大半で、僅かに手甲、脚絆に笠をもった商人の旅姿が混ざっている程度で、まるで軍勢の体を成していない。先頭を行く繁太がかろうじて陣羽織を羽織り、巧少年が鉢巻きをしているが、いずれも迷彩色で目立たない。子供の姿も多く、ちょっと目には難民と見まがう団体であるが、全く悲愴感はなく、行軍というよりは野遊びか、伊勢参りのように浮かれている。彼等は宿場は素通りし、荒れ地や山裾、河原などで野営しながら旅を続けていた。野営用具の老舗興流萬(こうるまん)の天幕や野営灯などを持参しており、野草や川魚などを採集して安上がりな食事をしているようだ。
彼等が天竜川で水遊びや魚釣りに興じている頃、越後の長岡を発した数人の旅姿の男たちがいた。お決まりの縞の合羽に三度笠の渡世人風のいでたちである。合羽の左裾が跳ね上がっているのは、そこに黒漆塗の長い護謨鉄砲の銃身があるからだ。振り分け荷物には握り飯と大伴奴(おおばんど)十六が詰まっている。ものも言わずに早足で進むこの一行は、無宿の渡世人風だが、その実、漆職人石田凝人が率いる仏具職人の集まりである。長岡から小千谷、十日町、中里、津南と下り、信州に入ると地形に関わらず最短距離を目指して、松本から飯田、天龍を掠め、三河の国へ抜けた。1日に40里を歩く強行軍である。
如何に中村屋繁太一行がのんびり旅をしていたとは言え、何と岡崎で合流してしまった。いや、正確には合流とは言えないかも知れない。東海道を行列になってわいわいと歩いていた繁太らの列に渡世人風の一向が追い付いたに過ぎない。長い行列を抜き去るうちに、その中に護謨鉄砲を持った者がいる事はすぐに分ったはずである。にも関わらず先頭の中村屋繁太に挨拶をするどころか、先頭まで行かぬ内に歩速を緩め、やがて街道をそれて姿を消してしまった。はたして中村屋繁太一行と行動を共にしないのはなぜなのだろうか。或いは敵対しようにも余りの頭数の差に一旦、衝突を避けたとも考えられる。いずれにしろ浅野浪速守在佐ェ門のいる京の都に向かっているに違い無い。
〜第拾七幕「船団」〜
これより10日前、薩摩の串良を出向した千石舟3艘の船団があった。大きな正三角形の旗印をなびかせた先頭の船の舳先には派手な鎧姿の中年の男が行く手を睨んでいる。この男、荒木坊位である。目にも鮮やかな緋脅しの鎧に2挺の護謨鉄砲を鍬型にした大兜を冠り、腰には3尺も有ろうかと言う太刀を佩している。戦国武将でもかくやという伊達者ぶりである。薩摩で伊達とは妙ではあるが、いかにも大仰で派手やかではある。取り囲む郎党もいずれ劣らぬ立派な鎧兜、具足に身を固め何処の軍船かと見まがうばかりである。一行は、陸路で串良まで行き、予てより坊位と懇意の村上某の用立てた船に分乗したのである。村上某はその変名が示すがごとく村上水軍の流れをくむ回船商人でこの度の船出に一も二もなく応じたものであった。日向灘へ出ると多少のうねりはあったが、まずまずの好天に恵まれ、早くも翌日には豊後水道の入り口に差し掛かっていた。2番船の胴の間に目を転ずると、なんとそこには屯天館砦に籠っているはずの不意趣佛句齋の姿が見出せるのである。大坂勢が東進し始めたと聴くや荒木坊位と謀って出陣を決めたものであるらしい。船上にあってもトンテンカンと槌音をひびかせて護謨鉄砲造りに余念が無い。
佐田岬を廻ると一層海は静まり、潮の色もいくぶん明るくなってきた。瀬戸内海は村上水軍のホームグラウンドであり、どこの島でも港でも歓迎され、あるいは仲間に加わるものまで現れた。松山沖を過ぎて大三島で一泊。こここそ海賊の基地であった島で、ここからも血気の多い若者が何人も乗り込んだ。その翌々日に今度は瀬戸内を北上した船団は、安芸津に錨をおろした。食料や水は大三島で潤沢に積み込んである。ここで坊位らに合流したのは安芸の護謨鉄砲職人であった。相模の舞星とは盟友でありライバルだという男で、舞星同様、連発銃、魔人銃を得意とする。護謨鉄砲職人が坊位と会うのは初めての事だが、いかにして連絡を取り合っていたものか、船上では早々に酒盛りがはじまり、まるで十年来の友人のように親し気に護謨鉄砲談義に花を咲かせた。九州勢が大坂勢と坂東勢とどう関わるのかは判然としていないが、いずれにしても護謨鉄砲職人は坊位と同盟を結んでいると看てよいのだろう。しかし、戦国の昔より昨日の敵は今日の友、そしてまた逆も真なりとかいう。まさかに坊位と佛句齋が袖を分つ事はないであろうが、事の成り行きは筆者にもわからない。
各人各様の思いを載せて船は順調に淡路島を過ぎ、一路堺へと向かった。串良を出て8日目の夕刻、3艘の千石舟に分乗した1000人余の薩摩を中心とした混成軍は、浅野浪速守在佐ェ門の膝元、大坂堺に上陸した。出迎えたのは、あの京輪屋の大番頭中川千武である。この姿を在佐ェ門が見たら激怒したに違い無いが、在佐ェ門はもとより、その息のかっかった者はここにはいない。
「京輪屋の大番頭、中川千武でおます。遠いところようお越しで。」
中川千武は大坂商人らしく笑顔で一行を迎えた。
「おいが、坊位でごあんす。わざわざのお出迎え、あいがとございもっす。」
「まあまあ、まずは手前どもの店へお越しください。今の大坂には浅野様のご威光は届いておりまへんよって。」
九州勢は派手な武装と旗指し物も仰々しく、大坂の市中に向かって行軍をはじめた

〜第拾八幕「軍議」〜
京輪屋の大番頭中川千武は、荒木坊位に大坂には浅野浪速守在佐ェ門の威光は届いていないと言っていたが、そこは在佐ェ門もぬかりは無い。堺には、刷師の三木一族の血縁の者が残っており、その日の内に在佐ェ門の陣営に向けて使いの者が出立したのであった。しかし、この使いが出立したのと時を同じくして、堺に次なる一団が入港した事を知る者はいなかった。これは10名の精鋭からなる新興勢力、阿波徳島の寺子屋先生一派なのである。
翌々日の夕刻に荒木坊位上陸の報を受けた浅野浪速守在佐ェ門は、急遽、軍議を招集した。メンバーは保郎河内守歩院人、一番隊木ノ下茸吉郎、三木一族、浅野家の情武役、作戦参謀と諜報、徴募、後方撹乱、宿泊準備、路銀調達、宴会取り仕切などを兼任する泥酔ノ助。賄い方、多具屋。さらには金属護謨鉄砲職人匁樽(めたる)大輔、可亜訓(かあくん)太郎らが居並んでいる。この他に村々の代表が数十人列席していた。浅野浪速守在佐ェ門は幔幕の最奥の歩院人の左に陣取り、他の者たちと向かい合っている。
「三木の手の者、泥の探りにより所々方々の動きが見えて参った。我らが京に滞在中に坂東、薩摩が挙兵した。」
一同の中から低い呻きに似た声が上がった。かがり火に照らされて、緊張と興奮で朱に染まった顔をあげ、在佐ェ門は続けた。
「坂東の中村屋繁太は、武州、上総、上州、信州、甲斐、相模、駿河さらには三河の一部からも兵を集め、既に浜松を発しておる。越後、長岡の塗師が合流したとの報もある。その数3000を越える大軍である。」
今度は一座にどよめきがおこった。
「聞け!そして先程、堺からの知らせでは、一昨日、堺の港に薩摩の荒木坊位、日向の不意趣佛句齋、安芸の護謨鉄砲職人の混成軍が千石船30艘で上陸したそうな。1艘に100人としてこちらも3000。」
在佐ェ門のもとに届いた情報はいずれも一桁膨らんでいる事を誰も知らない。一座はどよめきを通り越して、喚くもの泣くもの、逃げようとする者で殆どパニックになろうかという狂態に陥った。
「しずまれ!。しずまれい!。」
立ち上がった浅野浪速守在佐ェ門は、大音声で場をしずめるやおごそかとも言えるバリトンの声で続けた。
「戦は兵の数ではない。知略と技前じゃ。坂東、薩摩日向混成両軍を合わせた数が我が軍の倍にもならぬ。しかも両軍とも各地の雑兵(ぞうひょう)の寄せ集めに過ぎぬ。いざともなれば、散り散りになり、あるいは容易に寝返るであろう。ましてや薩摩日向は敵と決まったものでもない。恐れるにはたりぬわ。」
在佐ェ門は、自軍も寄せ集めである事を棚にあげて力説し、更に多具屋に菰樽を運ばせて全員に酒を振舞った。呑気な村々の代表が酔いつぶれ、あるいはそれぞれの野営地に引き上げてしまってからも主だった顔ぶれは深刻に軍議を続けていた。

〜第拾九幕「接触」〜
浅野浪速守在佐ェ門率いる大坂勢約5000は、翌朝東に向けて動き出した。しかし前夜の酒が祟って、出立は遅く、足並みも揃わなかった。大津、草津を抜けた頃には既に日は西に傾いていた。在佐ェ門は、琵琶湖東岸を一刻も早く脱するべきだと考えた。南北から挟撃された場合に西に琵琶湖を背負ったのでは文字どおり背水の陣となる。それに加えて保郎河内守歩院人は、谷間で戦闘になれば、隊列が長く伸び分断される怖れがあると考え、緒戦は岐阜羽島かせめて大垣で迎えたいと主張していた。背後の九州勢の気配も無気味だ。苛立つ首脳部の心も知らず軍勢は遅々として進まない。やっとの思いで近江八幡についた時には日はとっぷりと暮れていた。
一方、中村屋繁太の率いる300の一団は、子供を含んでいるとはいえ快速に西に向かっていた。大坂勢が近江八幡に到着した時には早くも木曽川を越えて岐阜羽島に陣取っていた。しかし、またしても長良川で鮎捕りに興ずる等、緊張感の足りぬ事おびただしい。
九州勢は、淀川を舟で遡り、山崎からはその支流である桂川へと遡上したが、この辺りから流れが細く、浅くなり、結局長岡京から陸路に切り替えた。陸路に入ると船旅で貯えたエネルギーを発散するように京の市中には立ち寄らず伏見から山科へ直線的なコースを駆け抜けた。舟にまで乗せて連れて来た愛馬蔵運にうち跨がった荒木坊位を先頭に軽快に進む。なんとも早い行軍で、その日の午後に通過した浅野浪速守在佐ェ門一行の温もりも消えぬ大津に入ってようやく夜を迎えた。いかにも重そうな完全武装の鎧武者が軽妙に駆け抜ける姿は、戦乱を知らぬ都付近の住民には鬼神の軍団に見えたかも知れない。実は羽のように軽い護謨鉄砲鎧であるのだが。
夜も明けやらぬ内に近江八幡を発した大坂勢は、平野部で坂東勢を迎え撃つべく急ぎ東へ下った。しかし、この目論見は坂東勢の一歩早い進軍のもとに脆くも崩れ去った。大坂勢が関ヶ原の隘路に差し掛かった時には既に坂東勢は、狭い関ヶ原の平野部を南北から見下ろす布陣をして待ち受けていた。北の瑞龍寺に中村屋繁太の率いる本体約200が、南の松尾の集落付近には舞星率いる斬り込み隊が伏せていた。折しも八刻(やつどき=午後2:00)で、泥酔ノ助が僅か数名の手勢を率いて摂行を兼ねておやつの物色に出ていた。本体から先行すること半里にも満たなかったが、まさかに坂東勢が既に到着しているとは思わぬ油断があった。炎天下で朦朧としていたのやも知れないが、それよりも瓜畑の実りに気をとられていたようでもある。ともかくも各人が胸元にいっぱいの瓜を抱えて視線をあげた時には手に手に護謨鉄砲を携えた中村屋繁太の手の物に完全に包囲されていた。
「あれま。」
酔ノ助は、頓狂な声をあげるのが精一杯であった。
この様子を遠目のきく保郎河内守歩院人が遠望し、浅野浪速守在佐ェ門に囁いたものである。
「なにしとんやぁ〜。しょうもな。おやつは抜きやなぁ。」
在佐ェ門は、肩を落としてかぶりを振った。

〜第弐拾幕「開戦」〜
運命の日、共和3年7月19日を迎えた。関ヶ原中央の狭い平野部に布陣した大坂勢は、正面の両山裾にちらつく坂東勢のかがり火と、後方に忍び寄る薩摩日向混成の九州勢の気配にまんじりともできない一夜を送った。夜半にものみに出た忍びの者、半飯(はんはん)によれば捕虜になった泥酔ノ助は、敵の陣中でいじめ抜かれていたそうだ。たき火を囲んだ敵勢の中央で酔ノ助が奇声を発して踊り狂っていたという。
「恐らくは、足下を護謨鉄砲で撃たれて跳ね回っておったのでしょう。泥様はその後ばったりと倒れ伏しました。」
この凄惨な報告は浅野浪速守在佐ェ門が握りつぶそうとしたが、いつの間にか全軍に浸透していた。
夜が明けた。関ヶ原全域は霧とも靄(もや)ともつかぬものが淀み、東の空が白みはじめても3丁(約330メートル)と視界がきかなかった。両軍とも動くに動けず、大軍がそこにいるとは思えぬ静寂が支配していた。しかその静寂は、昨晩舞星が布陣していた松尾の背後に一条の陽光が刺すと同時に轟音に撃ち破られた。轟音の音源は関ヶ原の西端、中山に迫った九州勢の放った火縄銃の第一段であった。霧に隠れて進んで来たのか、大坂勢の背後、5〜6丁(5〜650メートル)の間近に鎧に身を固めた大軍の姿が正面からの朝日を浴びて浮かび上がった。続いておこった鯨波(とき)に昨夜からの緊張に身を堅くしていた大坂勢は一挙に動揺した。大坂勢は鮪(マグロ)に追われた鰯(イワシ)の群れのように本能的に大音声(だいおんじょう)と反対の方向に雪崩(なだれ)をうった。火縄銃の第二段が追い討ちをかける。しかし、もとより東へ行けば坂東の軍勢が待ち受けている。駆け寄った大坂勢の先頭は陽を背にした中村屋繁太らの姿が靄の彼方に滲み出てくるのを見て動けなくなった。後続に押し倒される者、ずるずると敵前に押されて気も狂わんばかりに泣きわめく者と大混乱に陥った。東西から挟まれた大坂勢は、南北へ四散し、主戦力を残して思い思いに小さな谷や林の中へ駆け込んでしまった。この人の波に撹拌された為か、あるいは高くなりはじめた日射しの為か、早朝の霧はみるみる晴れて、関ヶ原は端から端まですっきりと見渡せる。もとより関ヶ原の平野部は東西が3キロ、南北は2キロ程度と狭い土地である。300人程度の浅野浪速守在佐ェ門本隊のみが外向きの円陣を組んだように団子になっているのが歴然と見て取れた。お互いに陣営の中へ中へと入ろうとするので、まるで煮豆の鍋のようにざわざわしている。とても戦闘体勢とは言い難い。それを東西から眺める九州勢と坂東勢は、朝から一歩も動いてはいない。荒木坊位自慢の空鉄砲と鯨波のみでこうなってしまったのである。
この情景をすぐ脇の山、というより丘と言った風情の天満山(198m)山頂から眺めている一団があった。彼等は、どの軍勢にも属していない。それどころか戦(いくさ)の支度は全くしていないのである。遠眼鏡をあてて詳細を見る者、情景をさらさらと巻紙に写し取る者、そして伝令に走るもの。彼等はほかならぬ「升込み」の一団であった。照れ日も瓦版も来ておりその数は数十あるいは100人近いかも知れない。日照れ、江戸照れ、嫁売り照れ、坂東照れ、照れ屋さんと西東の有名どころの幟が立てられ、活気に満ちている。それにしても大坂勢、坂東勢、九州勢と三軍が開戦に至った時に既に絶好の山頂で取材をしているとは、何時の時代も升込みとは恐ろしいものではある。
「さても、天満山から見下ろせば、薩摩の坊さん鎧兜に火縄銃、大坂勢は散って野に伏し応戦体勢。繁太は何処ときたもんだ。」
「朝靄の中の薩日軍の大筒一斉射撃により大坂勢には少なくとも63名の死者が出た模様・・・と。この数は遠眼鏡で勘定しただけにより、戦況明らかになれば100を越えようか・・・。うん、いいねいいね。」
各々勝手にしているようで、情報交換、取材分担もできているらしい。飛脚も大勢出入りをしている。

〜第弐拾壱幕「激闘関ヶ原」〜
当時の「升込み」によれば、この後の関ヶ原の合戦は凄まじいものだったという。数千の遺体から立ち上った血潮が上空で一塊の赤い雲となりやがて文字どおり血の雨を降らせたとか、まき散らされた莫大な護謨により以後数十年にわたり作物が育たなかったとか、泥酔ノ助の怨念が祟り、季節外れの大雪をもたらすなどの逸話が残っている。現代に至っても関ヶ原を通過する新幹線が速度を落とすのは大量に埋もれたゴムの影響で地盤が不安定な為だとされている。まあ、それはさておき、当時の関ヶ原に話を戻そう。
四散して戦力が激減し、浅野浪速守在佐ェ門本隊のみが孤立した大坂勢は言うに及ばず、もとより頭数も武器も貧弱な坂東勢は自ら仕掛けるのをためらった。では九州勢はといえば、こちらもにわかに集まったお祭り好きの薩摩っぽというだけで、人殺しが好きなわけではない。ましてや大将の荒木坊位はもとから天下取りを目論んでいたものでもない。空鉄砲と鯨波でこけおどしに成功したあとはどう動いて良いかわからぬ。いわゆる三すくみの状況であった。しかし、意外な展開がこの均衡をやぶった。九州勢から1人、坂東勢から1人駆け出した者がいた。間には大坂勢の陣があるが、2人は構わず一直線に距離を縮めた。タタタタッ。タンタンタン。と軽快な連射音を放って2人は大坂勢の群れの周囲、あるいは中に入り込んで乱射をはじめた。西からは安芸の護謨鉄砲職人、東からは舞星が駆け寄ったものである。2人は師弟であり、また永年の宿敵でもあり、互いの姿をみとめるや状況もわきまえずに一騎討ちをはじめたのである。職人の2枚羽連発銃に対抗する舞星の宇治式佐武機関銃は、護謨を雨霰とまき散らす。余談であ有るがこの時に舞星が使った宇治式佐武とは、片手撃ちもできる軽量な魔人銃で、後の世でイスラエル軍が採用したウジサブマシンガンの原形である。更に2人の戦いは手に技を持つ職人どうしの凌ぎあいとして後々まで語り継がれ、江戸末期には欧州にまで知れ渡った。この職人、舞星の組合せが翻訳の誤りでマイスターの音と職人の意味を西欧に定着させたらしい。これらのことの真偽はともかくとして、宿敵どうしの個人的な銃撃戦であるとの事情がわからない大坂勢は襲撃と勘違いして大パニックとなった。ある者は雄叫びをあげて駆け回り、また別の者はやけをおこして乱射をはじめた。この時、この混乱に乗ずるように東から現れた数騎の馬が坂東陣の後方にへ突入した。馬上の人間は縞の合羽に三度笠、手に手に黒光りのする長い護謨鉄砲を持っている。このまるで騎兵隊のような一団は越後の漆職人石田凝人一門だ。余りの勢いに坂東勢の陣が割れながら、前方に押し出された。坂東勢は否応なく守在佐ェ門本隊に迫った。この急襲に息をつく間もなく、今度は九州勢が真後ろから奇襲をかけられた。堺から後を追って来た阿波徳島の寺子屋先生一派である。勢い九州勢も押された形で大坂陣へ突入する。期せずして東西から大坂勢を挟撃する形となり、関ヶ原は一瞬にして修羅場と化した。ほら貝の音とウォ〜ンという大勢の喚声が沸き起こり、もはや敵味方が入り交じって戦局もわからぬ大乱闘となった。飛び交う護謨で戦場の上空は飴色に曇り、将兵の姿は霞む程だ。通りかかった虫などは巻き添えを食ってみな打ち落とされたという。現在でも関ヶ原にはヤンマ類は生息しないし、アキアカネ(赤とんぼ)も大移動の際に未だに関ヶ原を避けて通ると言われている。
山上の「升込み」は、戦場の興奮が伝染したように殺気立っていた。夏場のことで雑木の葉が繁り、木の間隠れの視野が、更に飛び交う護謨で霞んでしまっていた。遠眼鏡でも視界はきかず、合戦の雄叫びで伝言もできない。もはや想像に任せて思い思いに文書を綴ったり、絵筆を動かしたりしている。この時の取材が冒頭のような逸話の源流とみてよいだろう。

〜第弐拾弐幕「大将戦」〜
開戦から僅か四半時(約30分)後には、早くも喚声が小やみになり、あちこちに倒れ伏す兵の姿が散見するようになり、瞬く間にその数が増えて行った。正に死屍累々といった感を呈しはじめたと言えよう。飛散する護謨の数が減り、多少視界が開けてきたと見えたが、今度はいずれの手の者がどのような意図で発したものか、濃い煙幕が漂いはじめた。天満山にあった「升込み」の取材拠点からはまたもや視界が霞んでしまった。風が無く湿度の高い陽気のせいか、煙りは低く棚引いてまるで平安絵巻を思わせるがごとき風景が展開した。見えかくれに倒れ伏す将兵の姿が望まれるのみで、物音もずいぶんと静まったその時、
「やあやあ、おいこそは薩摩は隼人の荒木坊位でごあす。河内守(かわちのかみ)殿、勝負、勝負!」
薩摩日向混成軍総大将荒木坊位が保郎河内守歩院人(ほろうかわちのかみほいんと)に一騎討ちを望む大音声が響き渡った。諏訪、大将の一騎討ち!というので天満山の共同取材拠点ではにわかに関ヶ原を見おろせるポジションの争奪が起った。こうなるともともとがライバルなだけに紳士協定もなにもあったものでは無い。ここにも一つの戦場が展開したかに見えた。しかし、
「薩摩の坊位殿に申す!。我こそは河内の保郎歩院人也。この世の見納めに弾幕鉄砲を御覧じろ。いざ!」
と歩院人の応ずる声が聞こえるや関ヶ原の戦場も天満山の小競り合いもぴたりと静まった。その沈黙をやぶって西の方から馬のいななきに続いて坊位の雄叫びが響き渡った。
「ちぇすと〜!」
煙幕の切れ間に重武装に三角の馬印を背負った坊位を載せた黒馬が疾走する姿が見えた。北西の方向から弓を離れた矢のごとくに一直線に疾駆する。愛馬蔵運の頭に大筒と見まがうような魔人銃が取り付けられていた。これぞ坊位自慢の馬流間(ばるかん)鉄砲だ。蔵運が敵に馬首を巡らし、坊位が鳥牙(とりが=引金)を引く。正に人馬一体の兵器である。天満山裾からは、「ほうっ」と引き締まったかけ声と馬腹を蹴る微かな音に続いてひづめの音が起った。歩院人の後ろ姿が見えたのは、坊位と激突する寸前だった。この時、歩院人は既に手綱から両手を離し、弾幕鉄砲を両手に捧げもっていた。216発を装填できる馬流間鉄砲に比べ、40発と弾数こそは少ないが一瞬にして放った弾は正に弾幕となって目標を包み込む。
「やっ!」
「とう!」
二騎は互いの右脇をすり抜ける。その刹那、馬上の二人はそれぞれ護謨鉄砲を放ったとみえた。ダダダダッ、ザッザッ。ややあってどさりと重い音が聞こえた時には二騎とも煙りにまかれ、その姿は見えなかった。ワァ〜ッと喚声があがったが、勝敗は不明だ。その喚声が止まぬ内に今度は東から周防親子、西からは三木親子が名乗りをあげて決戦を挑んだ。その次は九六八対木ノ下茸吉郎、からくり人形師恩対匁樽(めたる)、秋田の魔亜坊対石田凝人、巧少年対不意趣佛句齋(ふいしゅぶつくさい)と対決は続いた。天満山からは、いずれかが倒れる姿や相打ちになる様子が垣間見えることもあるが、仔細は見て取れない事が多い。「升込み」のいら立ちか極に達した頃、これまでよりも一層の大声で名乗った者がいる。
「我こそは浅野浪速守在佐ェ門なるぞ!坂東の田舎護謨鉄砲を撃ち破ってくれるわ。中村屋繁太!尋常に勝負じゃ〜!」
「田舎者には、田舎者の意地がある。武蔵野で鍛えた獣(しし)撃ちの技、みしてくれよう!。」
とこれは意外と冷淡な繁太の応酬。これで東西護謨銃合戦の雌雄を決するのか!。

〜第弐拾参幕「大威弁外」〜
最終戦も見えなかった。一部の升込みは山裾に駆け降りてみたが、迂闊に平野部に顔を出すこともできず詳細は霧の中、いや煙幕に隠れて不明のままだ。しかし、そんなことで記事を締め切りに遅らす訳には行かない。升込みの放った飛脚や早馬が諸方面に散って行ったのは、開戦から半刻(約1時間)もたった頃であったろうか。それよりも早く第一報は命流(めいる)で流され、早いものはその時既に大坂や遠州あたりにも達していたかもしれない。この命流(後の盟留)とは読んで字のごとく、もともと幕府の命令伝達の手段であったが、天下泰平が続くこの時分には、升込みや一部の富裕な大商人も利用するようになっていた。命流は地域や環境によって様々な形態をとったが、ともかく早い。固定式の巨大な弓の矢に結び文をして、決まった地点へ向けて射放つと、それを待ち受けた次なる射手が素早く拾って次へ射る、いわゆる「矢継ぎ早」の大弓では、東海道を一刻半(約3時間)で結んだという。この方式では東海道に設置された飛雁郷(ひかりごう)が有名である。他にも狼煙(のろし)を応用した一寸(ちょっと)命流や伝言太鼓「曳出絵据(えいでえす)える」、大掛かりな糸電話のような「相絵図(あいえず)で言えぬ」などがあったと言われる。
それはそれとして、関ヶ原の模様に目を転じよう。一刻もたった頃にはさぞや凄惨な光景が展開していそうなものだ。が、しかし、煙幕が晴れた後には升込みの期待に背いて、なんとも和やかな風景が展開していた。南北に逃げ散ったはずの大坂勢は、周囲に集まって出店を広げ、酒食を振舞っている。何処からか京輪屋の荷車数台が入り込み中川千武と二番番頭、前中尾高峰はじめ手代や丁稚までが護謨の箱を配って歩いている。浅野浪速守在佐ェ門、荒木坊位、保郎河内守歩院人、中村屋繁太、不意趣佛句齋、木ノ下茸吉郎、三木一族、安芸の護謨鉄砲職人、舞星、石田凝人、九六八、恩、匁樽、巧少年などなど各軍の将やその家族が中央に集い、和気あいあいと酒を酌み交わしているではないか。まっ先に血祭りにあげられたと思われた泥酔ノ助にいたっては、それこそ踊り狂って誰彼構わず抱き着く始末。口あんぐりは升込みの連中だ。危険が無いと知って、おそるおそる天満山を下っててみれば、やれ、薩摩の虎の意を借るあんぐりがどうの、連発は二枚羽に限る、フカヒレが喰いたい、なんでもあるさぁ、漆は越後だ、ケヤキは武州だと護謨鉄砲談義に花を咲かせているらしい。升込みが揃った頃を見計らって浅野浪速守在佐ェ門が、立ち上がり
「升込みの関係者のみなさん、これから布令素(ふれす)発表しますよってな。絵師の方が前、記者さんは後ろに並んでください。」
と告げたものだ。升込みの連中は不得要領のまま言われる位置に集まった。これを囲んで各地からの参集者達も思い思いに腰をおろした。升込みの向いには浅野浪速守在佐ェ門はじめ主だった護謨鉄砲関係者が並び、向かって右の端には京輪屋の中川千武も控えた。
「もう、みなさん御存じやと思いますが、わしが浅野浪速守在佐ェ門ですぅ。これから重大発表をしますよってな、みなよう聴いとってください。まずは、江戸からはるばるお越しの中村屋繁太はんから御挨拶がございます。繁太はん、お願い申しますぅ。」
中村屋繁太は、ゆっくりと立ち上がり、升込みの面々を一渡り見渡すと口を開いた。
「本日は、お忙しいところわざわざの御参集、誠に持って有り難く存じます。一同を代表致しまして、心より厚く御礼申しあげます。実を申し上げれば、本日のこの威弁外(いべんと)は、日の本護謨鉄砲組の結成式なのであります。」
この抜き打ちの発表に升込みの席からどよめきがおこり、続いて取り囲んだ数千の群集から拍手喝采が沸き起こった。

第弐拾四幕「大団円〜終章〜」
「升込み」は完全に欺かれたといっていい。全てが仕組まれていたのである。実はこの物語自体、ここまではほぼ、当時の升込みの「見て来たような嘘」をベースに語ってきたのである。つまりは読者諸氏も300年の時を越えて当時の升込みにたばかられたことになる。何を隠そう、物語の始るはるか以前から全国の護謨鉄砲愛好者は相互に命流(めいる)で密な連絡を取り合っていたのだ。中村屋繁太の策定した規範に則り、各地で技量が競われていたのは冒頭にも触れた。その成績は命流を通じて繁太にもたらされ、集計されていたものだ。因にこの年の前年の日本一は保郎河内守歩院人であった。升込みの中にはこの辺りの事情にもある程度通じていたものはあったが、この度の関ヶ原にいたる計略を察知したものはなかった。これは当時の幕府よりもすぐれた情報網を持つと言われた升込みすらも気付かぬ程綿密で隠密を極めた計略だったことを意味する。各地では升込みの目を意識しながらそれぞれが芝居を演じ、あたかも開戦の気運が高じている演出がなされた。特に大坂では後に在佐ェ門一座とまで呼ばれた浅野浪速守在佐ェ門一派が大芝居で升込みを引き付けた。ここにおける泥酔ノ助の役割は実に大きい。酔ノ助の「ここだけの話し」は各升込みの功名心を煽り、その結果庶民へも十二分に(偽)情報を流す事に成功したのである。これまで多くのヤラセで庶民を手玉にとっていた升込みがまんまと日の本護謨銃組結成式のお披露目に一役買わされたと言う訳だ。
この全国組織の結成と升込み利用計略はそもそもが中村屋繁太の思いつきであったが、繁太の親友、あきらなる人物と保郎河内守歩院人が「仕直(しなお)り」を書いたのであった。あきらと歩院人は共に平家の作戦参謀だった小川氏の血をひく血縁であるとの説もある。仕直りとは、もともと物語を舞台で演ずる為に書き直したもので、言ってみれば台本である。この技法が優れていた事から後にエジソンが「大列車強盗(世界初の映画)」の作成にあたって採用し、以来映画界ではシナリオとして定着したことは周知のとおりである。
「仕直り」と並行して、関ヶ原までの各地での関係者の些細な行動から、幕府への根越詠書(ねごしえいしょ=裏の申請書)に至るまで準備されており、帝(みかど)や升込みの反応もほぼ正確に計算されていた。この根越詠書が無ければ、幕府は勿論、戦場や行軍の通り道を領する諸大名が黙っているはずは無いのである。二人の仕直り頼人(らいと)は、この点に升込みが疑念を抱くのを一番恐れていた。勿論、升込み対策については、もともと相手の納豆枠(なっとうわく=今のネットワーク)がしっかりしているだけに綿密に計略を練ってあったのは言うまでも無い。適宜に情報を流し、充分取材をさせつつ本音を悟られない筋立てが誠にもって上手くいった。最後の合戦で文字通り煙にまいたのは、最大の山場だった。まず開戦の迫力有る第一報が命流(めいる)で流される。各地で入素(ニュース)に触れた人々は激戦の興奮に続報を必ず知りたがる。最初の命流の情報の訂正が効かない時間をはかって布令素(ふれす)発表を実施する。そうすればこれが続報を待つ人々の目に必ず入るという仕組みだ。もしも誤報に抗議する者が現れても全てが升込みの責任となるのである。日の本護謨銃組としては平和に結成の式典を行っただけで、合戦をした覚えはないし、合戦をすると宣言した事も無いのである。輪を掛けてこの布令素発表の後に参加者の代表が三種目で成績を競う全国大会が実施され、この模様も升込みが取り上げたのも計画通りであった。
この前代未聞の大作戦で、日の本護謨銃組はその存在を全国に知らしめ、一大護謨鉄砲ブームを巻おこした。町人は言うに及ばす、武士にも愛好者が現れ、大名や旗本の中にもお家芸として手厚く奨励した家も少なくは無い。あきらなどは、噂を聞き付けた諸家の江戸藩邸に招かれて指南を要請された。この指南役を自ら懇唆流胆人(こんさるたんと)と称し、身支度などについて、ああでないと、こうでないとと細々と指導した様子を人々が「こうでねえと」と言ったのがコーディネートの語源に他ならない。
さて、ここまで読み進んでこられた物好きで賢明な読者諸氏はもうお気付きだと思うが、日の本護謨銃組に代表されるこの時代の諸々の文化、発明が現代の全世界の言葉や最先端技術に多大な影響を及ぼしているのである。日本では文明開化を促進し、新時代を築いたが後年ゴムの産地の利権を巡って大共和戦争が勃発したのは唯一の不幸な歴史と言える。大仰に言えば今ここに我らがこの時代を謳歌できるもの、先人の護謨鉄砲にかけた情熱の賜物なのである。ああ護謨鉄砲万歳なのである。ー完ー
〜資料編〜

この物語は、全てフィクションであり、登場する人物、団体などは実在する人物、団体とは一切関係がありません。また、歴史的記述、地名、言語表現などは以下の文献などを参考にしておりますが資料としての正確さを保証するものではありません。

参考資料(年代順)
「江戸名匠百選」〜著者不詳〜(東京玩具資料館所蔵)
「河内守隆盛紀」〜著者不詳〜(大阪歴史資料館所蔵)
「ぼふいとぶつくさい」〜日向伝助〜(ぜぼね研究所所蔵)
「在佐衛門記」〜泥酔之助義弘〜(浅野純一氏所蔵)
「水軍記」〜著者不詳〜(愛媛海賊資料館所蔵)
「日的護謨銃交戦於関原」〜従 劇宣〜(紫禁城戦記博物館)
「共和護謨鉄砲始末記」〜柳生近江守銃兵衛〜(岐阜古戦場博物館所蔵)
「上方見聞録」〜R・B・ペルリ〜(米・国暴走省=オクタゴン所蔵)
「なるほど大番頭・その五六」〜前中尾高峰〜(株式会社京輪資料室所蔵)
「浪速護謨鉄砲名鑑」〜三木屋印版〜(スリーウッズ・プリンティングKK所蔵)
「越後漆と渡世人」〜長岡史研会〜(石田豊文氏所蔵)
「非装薬銃器開発録・第弐綴」〜旧日本陸軍九六八部隊護謨砲研究班〜(九六八部隊戦友会所蔵)
「江戸の隠密『ザ・忍(しのび)別冊』」(探偵書房)
「日向の砦」〜魚本正彦〜(中学館)
「近代日本マスコミ事情」(日本報道書籍社)
「世界の言葉は日本から・えっ!ピラミッドが陽浴堂(ひあみどう)?」〜中村煩多〜(冗談社)
「世界の言葉は日本から2・えっ!ナスカって飛鳥?」〜中村煩多〜(冗談社)
「ゴム銃の本」〜日本ゴム銃射撃協会〜(こだわりの世界社)
「わゴムのわは、平和のわ」〜中川宣務〜(共和ブックス)
「ゴム銃狩猟事故例集」〜大日本ゴム銃猟友会〜(実猟の友社)
「天然ゴムの弾性と破壊力レポート」〜笹野 潔〜(日本レゴム研究所)
「G-Files No.5610」〜米国FBI(Fine Business Investigation)〜
注意:これらの資料、著者、出版元、所蔵者は実在しない場合があります。

執筆にあたり、以下の団体、企業に絶大なる御支援・資料提供を賜りました事、略儀ながらこの場をお借りして御礼申しあげます。

日本ゴム銃射撃協会
大日本ゴム銃猟友会
全日本ゴム銃製造者共同組合
アルサ−社
オッグクラフト社
キュロハウス
KEROKERO火器商会
THIRDゴム銃工房
ボーイ製作所(Triangle Arms社)
トンテンカン
ハンター工業
北部製作所
飯飯飯店
天丼と日替わり定食のたま天
好奇心満々


番外編
 

名前: ハンター(管理人) [2008/07/17,01:49:37] No.10274

在佐ェ門捕物控

駒川在佐ェ門五六十捕物控〜第六話「護謨十手」(繁多作)より


 「ごよーごよー!」若い遊び人風の下手人を武家屋敷の板塀に追いつめた岡っ引き、駒川の親分こと在佐ェ門は、肩で息をしながらも隙のない鋭いまなざしで相手をねめつけていた。一方の下手人は様々な悪事に身を染め、沢山の修羅場をくぐって来た輩と見えて、追いつめられたはずなのに妙に落ち着いていた。やがて追っ手が在佐ェ門一人と見極めるなり、片頬をゆがめて不敵な笑みを浮かべた。十手1本しか得物を持たぬ中年の岡っ引きを舐めてかかったようだ。それもそのはず、洗いざらしの着流しの懐に刃渡りが一尺もあろうかというドスを呑んでいたのだ。
 「親分さん、下手人に出会ったのは幸運だったが、その下手人が、このヤッパの辰五郎だったのは不運だったねぇ。」
暗くドスの利いた声で言うが早いか、懐手をしていた右手をすぅっと抜き出した。
「神妙にしゃぁがれ!、下手に動くと痛え目をみるぜ。」
在佐ェ門は、右足を半歩引いて左半身に身構えた。左手で十手の柄を握り、十手の先を下手人の眉間にぴたりと向ける。右手では十手の柄に巻かれた朱の紐の尻についた房を握っている。
 その妙な構えを在佐ェ門の怯えと見たのか、辰五郎はドスを脇に引きつけるや、雪駄をならして踏み込んだ。その刹那、在佐ェ門の右手が動いた。朱房が一尺たらず引かれたと同時に十手の先から数十の護謨輪が飛び出した。寸分違わぬ弾道で飛翔した護謨輪は、吸い込まれるように辰五郎の眉間と両の目頭に命中。そのあまりの勢いに辰五郎は顎をのけぞらし、上体も延び切った。間髪を入れずに在佐ェ門が繰り出した左足は、辰五郎の軸足を払った。辰五郎は後ろざまに倒れながら、武家屋敷の板塀にしたたかに後頭部を打ち付けて動かなくなった。