Diary(想い出の記録)  Vol.10
   <2010・1月〜5月>

* 憲法記念日・市民のつどい:渡辺治さん講演会(かごしま県民交流センター<県民ホール>)
  この会のオープニングセレモニーで川野恭司先生が「ヒロシマの有る国で」を美しい歌声で歌われ、
 とてもすばらしかった。
  講師は9条の会事務局長・渡辺治さん。
  とても深い内容のあるお話だった。でも、私がこの講演会を通して痛切に感じたのは今回の憲法記念
 日講演会の参加者のほとんどが高齢者で、若い人達の参加が少なかったことだ。もっと多くの若い世代
 の人々がこのような会に参加して、憲法について勉強して欲しいとつくづく思った。

* いよいよ金子みすずに触れる旅へ!
 

4月4日

2010・1月1日
     2010年の新しい年の始まり。今年こそは体調を万全にしながら一日
    一日を大切に過ごしていきたいと思っている。

 小倉駅から列車で下関へ。下関からみすず列車に乗車。
 とてもかわいいレトロな列車で、指定席の一両は日本海に向けて座席が組まれていた。ビューポイントで止ま
ってくれるので列車の窓から見える日本海の島々はとても美しく、カメラに収めた。
 みすず列車に揺られながら過ごした二時間半は長いような、短いような時間だった。

 会場にはたくさんの方々が詰めかけ、椅子が足りなくなるほどだった。会場の
皆様が私の拙いスピーチを熱心に聞いて下さってとても嬉しかった。
 また、宮崎先生とのシンセサイザーによるコラボレーションはとても素敵なも
ので、大感激(^^)写真がないのが残念!きれいな音色の中で絵本と英語詩を
朗読できて私にとって忘れられない想い出となった。
 会場の係の方はリハーサルの時から涙しておられた。
 宮崎先生は童謡詩人・金子みすずの詩に作曲し、発表している方で、私たち家
族の本「走り来れよ、・・・・」を作曲して下さり、後日にはその楽譜とCDが届
いて嬉しかった。宮崎先生に感謝!

 講演会場には岩崎先生ご家族も来て下さっていて、控え室で歓談できてとても
懐かしかった。玄くんの大きく成長している姿に驚きつつも、頼もしかった。
 

 日本で最初に行われたのは1923年(大正12年)で、その時の集会は警官によって中止させられたという。多く
の困難を乗り越えて女性が権利を広げる運動をさらに進める日であり、女性だけでなく障害者やすべての人々の
権利を同じように認めあう日だと思う。
 イタリアでは女性が互いにミモザの花を贈り合う習慣があり、町中がミモザの花でいっぱいになる素敵な日だ
そうだ。演台の花はミモザ。

 写真右はみすずが20歳を過ごした「金子文英堂」。二階のみすずの部屋に入ってみる
と、鏡台やたんすが置かれていて静かなたたずまいだった。
 本屋を経営していた家族や故郷の環境に恵まれ、この頃は幸せの絶頂期にあった。当
時としては稀(まれ)なことで、大津高等女学校に通っていたという。
 奇しくもこの日は私の誕生日で、忘れることのできない日となった。
 館内は全国各地からやって来た多くの人々でいっぱいだった。外に出ても小さな通りに人が絶えなか
った。
 ちょうど日曜日で、銀行の下ろされたシャッターにもみすずの詩が書かれていた。(写真下)

2010年の我が家の年始のご挨拶

浜は祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
鰯のとむらい
するだろう。

列車の窓から見た日本海の島々

 列車の中でビールで乾杯!父も大喜び。

 頂いた墨絵付きサインがアップできないのが残念!

 トークショーの開始前に加藤監督のお母様に招かれ、控え室へ。
 絵本「つみきのいえ」(写真右上)は以前に隼人町内の書店で買っていたので、加藤さん
ご本人にサインして頂いた。墨絵の美しい絵がすばらしく、大感激(^^)宝物にしよう。
 午後1時半、開会。ホール内ではトークはもちろんのこと、加藤監督に一目でも会いたい
という人達でいっぱいだった。
 気さくにスニーカー姿の加藤さんのお話はとても面白く、意外な一面も垣間見ることがで
き、楽しいひとときを過ごすことができた。(控え室でサインして下さる加藤監督・写真左)

 歌碑の前には仙崎港が広がっていた。
 鯨の赤ちゃんが眠っているという青海島に行く鯨の形をした観光遊覧船(写真右下)がゆっくりと走っていく。
 天気もよく、とてものどかな風景だった。
 父は子どもの頃に朝鮮から博多港に引き揚げてきたと言う。仙崎港にも昭和21年末に仙崎が引揚港の役割を終
えるまで、この港に上陸した人々は約41万人、ここから朝鮮に帰った人々が約34万人、大混乱の一年余りであっ
たという。

 

 

いよいよ韓国・ソウルへの旅ー父の子供の頃の記憶をたどってー

 伊藤博文邸宅を見て萩市内を回り、吉田松陰が自分で建てた松下村塾のある松蔭
神社へ。
 松下村塾は歴史好きな私にとって興味深い所で、今で言う塾のようなところであ
るが、思っていたより小さかった。ここをカメラでパチリ!(写真左)
 29歳(満27歳)という若さで夭逝するまで奇兵隊を指揮し、長州藩の反幕勢力の
軍事的基盤として明治維新に大きな働きをした高杉晋作もここで勉学に励んだのか
と明治の時代に思いを馳せた。
 萩博物館を見て回ったあと、高杉晋作誕生地を見て萩駅へ向かう。
 
 新堀川のほとりの満開の桜並木が見事だった。

* 萩といえば陶器・萩焼の街。今まで田舎というイメージを持っていた
 が、実際に行ってみると歴史の深い城下街だった。

 列車の時間まで一休みして、仙崎の海の幸をお土産に買った。
 親切なタクシーの女性運転手さんが長門からのほうが待たないと言われたので、荷物を仙崎駅で取って長門駅
へ。
 仙崎での感動の余韻を胸に、山口県萩に向かう。
 長門駅から列車で萩へ。萩駅からホテルのバスで萩本陣へ。(写真下)

  

朝焼小焼だ
大漁だ
大羽鰯の
大漁だ。

遍照寺「こころ」の歌碑

 仙崎駅で列車を下り、昼食をとってみすず記念館へ。
 ようやく到着した仙崎の街は金子みすず一色だった。私が金子みすずに興味を引かれたのは大学時代、母がコ
ラムに引用していた「大漁」の詩がきっかけだった。その後、岡山での講演旅行で竹久夢二記念館に行った時に
金子みすずのCDを買ったのもその一つだった。
 ずっと感性豊かな数々の詩を生み出したみすずがどんなところで生まれ育ったのか、みすず記念館に一度行っ
てみたいと思っていた。仙崎の街へ実際に行ってみると、のどかで詩にぴったりの街だった。
 記念館の中には26歳という若さで夭逝したみすずの残した詩などがきれいに展示されていて、みずみずしく感
じられた。

混雑している受付でサイン

北九州講演&金子みすずに触れた旅(仙崎〜萩)

1月23日

 父は終戦後、北朝鮮・ハムフン=咸興(かんこう)から引き揚げてきたと言う。子供の頃の父たちが
 どんなふうに38度線を渡ってきたのか、そのルーツを探す旅に出ることになった。私たち家族三人と、
 父方の妹、弟である伯父・伯母たちの六人で韓国・ソウルへ。それは父が長い間考えていた計画だった。
  5月16日の午後1時、鹿児島空港に集合。いろいろ書きたいことがたくさんあるが、写真も入れながら
 「父が見た38度線」として書いていきたいと思っている。

大 漁

ダウン症等支えあいの会講演会in北九州(国立小倉医療センター 鴎ホール)

あけまして
   おめでとうございます

 「春をよぶつどい」の第3部・巌淵真理ミニコンサートに出演された方々と控え室
で一枚、記念撮影。
 左からピアノ伴奏の大坪さん、中央・巌淵真理さん、右端・ソプラノの入江さん。
 巌淵さんのカルメンの「ハバネラ」(ビゼー作曲)もよかった。さらに私の好き
な石川啄木の「初恋」もまた素敵だった。

 会場はしーんと静まり返り、熱心に聞いて下さっているのがひしひしと伝わってきた。
 東京から来られたオペラ歌手・巌渕真理さんのピアノ伴奏の方が私の絵本と英語詩の朗読にピアノを
つけて下さった。とても素敵なコラボレーションになった。
 後日、実行委員会の方からたくさんのお心のこもったアンケートが届く。
 
 *「ていねいに育てること、きちんと学ぶことの大切さを感じました。元気をもらって、私もまた頑
張ろうと思いました」

 *「立派に成長されて生命の尊さ、生きる喜びを世界に発信されている感動の講演でした」

 *「大きな大きな元気をもらいました、やさしさと可能性がいっぱい詰まった言葉、涙の出る言葉、
私も頑張ります」

 *「言葉の表現が実に胸に響くものでした。きっと聴いている多くの人々の感動を呼んだことと思います」な
どがぎっしり書かれており、私自身も勇気づけられるものだった。

 当日の参加者は460名で、会場に入られなかったけれど合計で800名の方々がご協力下さったことを後で知った。
忘れられない講演会となった。皆様に感謝!

 列車を乗り継いで、新幹線で博多へ。福岡空港から鹿児島空港へ。
 留守の間に床の張替え工事を頼んで出かけた我が家はさてどうなっているだろうか。帰宅してみると、リビ
ングとキッチンがピカピカのきれいな床になっていた。

私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面(じべた)を速くは走れない。

桜が満開の会場近く

3月14日

 国際女性デー記念「春をよぶつどい」講演会(サンエールかごしま・2F講堂)

私と小鳥と鈴と

 今からちょうど101年前の1909年にア
メリカの女性たちがパンと参政権を求
めて立ち上がったことを記念する日。
 ドイツの女性活動家・クララ・ツェ
トキンがこれを提唱し、3月8日が正式
な記念日となった。

2月15日

昨年、行ったエルミタージュ美術館

* 母校・牧園高校の閉校記念誌の最終校正をファックスで送付。脱稿、
  写真送付などを全部終わってほっとしていたところに突然校正が送られてきた。やはり新しく訂正す
 る箇所が出てきた。
  「閉校に寄せて」の自分なりの文章がどういう形で掲載されるのだろうかと心配もあったが、読み返
 してみて少し安心した。

4月5日

 無事講演会が成功裏のうちに終わり、武田先生のお車で満開の桜の並木道を通りながら北九州市内のホテルへ。
 川辺の広々としたホテルの部屋の窓から見える景色もよかった。武田先生に感謝!

4月3日

* 絵本ワールドinかごしま(南日本新聞社・みなみホール)
  

 昨年、私は長年の夢だったサンクトペテルブルクとチェコ(プラハ)に家族三人で行く
ことができました。(写真右上)
 国内では緑と水の新潟、宍道湖(島根)の夕日、日光(栃木:21年ぶりに再来訪)の美
しい紅葉を見ることができました。その中でたくさんの方々と出会い、私にとって忘れる
ことのできない想い出を頂きました。多くのすばらしい方々との出会いから勇気をもらい
ました。
 また、11月にはチェコフィルハーモニー管弦楽団の「新世界より」などの演奏を聞き、
この上ない感動を味わいました。このように有意義な一年を過ごせたことに感謝致します。
有難うございました。
 今年もこれらのことをこれからの活動に生かしていきたいと思います。
 皆様にとって今年がよい年なりますように!
 核兵器のない、平和な世界になりますように!(綾)
 何より体を大切に、元気で過ごしたいと思います。(昭雄・甦子)
 
         2010年 元旦

5月3日(憲法記念日)

 その夜は萩本陣に一泊。丘の上にあり、ホテルから見える景色はとてもきれ
いだった。
 ホテル内のレストランで夕食。家族三人で私の誕生日を祝ってビールで乾杯。
食事もとてもおいしく、人生の中で記念すべき夜のひとときだった。

 

つづく

5月16日〜19日

私がからだをゆすっても、 
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように
たくさんな唄は知らないよ。

実行委員長・大迫より子先生と

 最初はただ参加するだけだと思って気楽な気持ちでいたら、突然の講師依頼に驚いた。まさか自分がスピー
チすることになるとは思いもしなかった。急遽国際女性デーについて自分なりに調べることにした。
 

3月3日

 朝早く鹿児島空港を出発して、福岡空港へ。
 空港内のレストランで朝食を取り、空港から地下鉄とJRで北九州
へ。
 タクシーで講演会場(小倉医療センター:旧国立小倉病院)へ。
 広い北九州には医療センターが国立と市立の二つに分かれており、
タクシーの運転手さんが間違えて市立の方に行ってしまったのだ。
慌てて引き返して、やっとたどり着いた。
 

 申し込んでいて、もうだめかと思っていた短編アニメ部門でアカデミー賞を受賞された加藤久仁生監督
のトークショーの招待券が前日の夕方に速達で届いた。突然のことで最初は驚いたが、急いで準備をして
家族三人で会場へ。
 会場のエントランスホール(入口)前でひまわり幼稚園時代の大久保(旧姓伊藤)先生とばったりお会
いする。シスター先生のお別れ会以来、半年ぶりだった。 

トップページに戻る

 お墓は記念館から少し離れていたので、タクシーで行くことにした。
 正面に「こころ」の歌碑のある遍照寺へ着いた。その隣の小さな墓地にみすずの墓
がぽつんとあった。結婚し、子どもも生まれたが、結婚生活は順風満帆ではなかった
という。
 墓地に建てられた木の墓標は子どもを取られ、失意のうちに亡くなったみすずを象
徴しているようで寂しいものだった。
 この後、再びタクシーで仙崎の街を一回りしてから港の方の代表作「大漁」の歌碑
のあるところに行った。

 

鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい

 病院の奥にある会場でダウン症等支えの会の世話人・武田康男先生、私の絵本と英語詩の朗読の音楽コラボレ
ーションをして下さる宮崎先生とお会いする。
 主催者の武田先生とは11年前の2008年に私が出版したエッセー集『21番目のやさしさにーダウン症のわたしか
らー』の「名前で呼んでください」の項で武田先生の文章を引用させて頂いていたことがあり、一度お会いした
いと思っていたところだった。武田先生がお世話をしておられる支えの会で講演できることはとても嬉しい出来
事だった。
 

460名の参加者で立ち見が出てしまった会場

* 母校・牧園高校の閉校式(校内・体育館)
  体育館の入口前で中学時代の級友のお父様と会う。
  高校時代の家庭科担当の吉村先生と久しぶりに再会することができた。
  母校の校歌が流れ、いつの間にか口ずさんでいた。ここで過ごした高校生活三年間の想い出が甦って
 きて、胸に迫ってくる熱いものを感じた。閉校になるのは寂しいものはあるが、霧島高校のこれからの
 発展を心から祈っている。