Webで学ぼう 霧島山

霧島山とは
位置と地形
おもな山々
生い立ち
地質
植生
湧水・温泉
霧島ジオパーク
霧島登山
参考文献
用語集
リンク集

霧島市公式ホームページ


霧島山の成り立ち

霧島山はどのようにしてできたのでしょう?

 霧島山はたくさんの火山からできています。それぞれの火山は同時に生まれたのではなく,長い年月の間に少しずつ活動を始めました。
 ここでは,現在までにどのように活動してきたかを紹介します。
それぞれの絵は長い年月をひとまとまりにして表していますので,その時期にずっと噴火を続けていたわけではありません。
説明の絵は宮崎県側から霧島山をみたものです。
  各市町から見た霧島山の写真は「位置と地形」ページを見てください。
それぞれの山の位置関係は下の図を参考にしてください。

  

 霧島山の地下にある最も古い溶岩は100万年ほど前のものであると言われていおり、その時代から霧島山周辺では火山活動が活発であったということが考えられます。
 霧島山が現在の姿をつくり始めるはるか前、約56万年前には小林カルデラが、約34万年前には加久藤カルデラがそれぞれ大噴火を起こし、カルデラ地形をつくりました。加久藤カルデラを流れる現在の川内川は、後の飯盛山からの溶岩流にせき止められ、カルデラ内は湖になっていた時期もありました。
 これらのカルデラの噴火活動から約14万年後に霧島の山々の活動がはじまりました。

 栗野岳(くりのだけ)などの古い火山を土台として,白鳥山(しらとりやま),大浪池(おおなみいけ)や夷守岳(ひなもりだけ)などの火山が活動しました。

 飯盛山(いいもりやま),甑岳(こしきだけ)や韓国岳(からくにだけ)などの火山が活動しました。
  この時期は「旧石器時代」にあたります。霧島周辺にある遺跡から,旧石器時代の石オノや大皿などが見つかっています。
 また、この時期は氷河期の中での氷期(寒い期間)にあたり、ブナやミズナラなどの温帯性の落葉樹やモミ・ツガなどが南九州一円にも北から勢力を伸ばし、繁茂していた時期です。

 韓国岳が大きな噴火をして現在の山の形になりました。古高千穂(こたかちほ)も活動を始めています。
  「旧石器時代」から「縄文時代」に移り変わる時期です。それまでの石器を使った道具に加え,縄文土器と呼ばれる土器が作られるようになりました。この時期も,動物を狩ったり,植物を採取したりしながらの生活が続いていました。
 また、この時期、氷河期での寒かった氷期が終わり、暖かい期間に入りました。(間氷期) 急激な温暖化が進み、低地にひろがっていたブナやミズナラ、モミやツガはカシ・シイなどの照葉樹林に占拠され、標高の高い、気温の低い場所に取り残されることとなりました。

 高千穂峰が完成したのち,4600年前に御池(みいけ)が大噴火しています。4600年前の御池の大噴火によって降りそそいだ軽石は,現在でも霧島周辺のから都城市に至る広い範囲で見ることができます。
 「縄文時代」から「弥生時代」「古墳時代」にあたります。食生活の中心が,それまでの狩猟から稲作などの農耕へと徐々に変化していきました。

 約1500年前から噴火を始めた御鉢(おはち)が成長しました。新燃岳(しんもえだけ)が再び噴火を始め,えびの高原では硫黄山(いおうやま)ができました。

現在の霧島山(撮影場所:上野原縄文の森)

 (小林市側からの撮影)
霧島山の写真
 (霧島市側からの撮影)一番右手側の高い山が高千穂峰(たかちほのみね)です。天気の良い日には霧島市内のさまざまな場所から雄大な霧島山をみることができます。
文献:井村隆介(2004)「霧島火山の生い立ち」徳田屋書店